2012/2/27-3/3

 

2012/02/27(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 2:11 賛美 聖歌460
 本節において著者は「人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです」と語る。「人を聖なる者となさる方」とは「救いの創始者」御子を指している。御子はわたしたちを聖なるものとするためにご自身をささげられたのである(ヨハ 17:19)。それによってわたしたちは聖なるものとされたのである。それはすべて一つの源から即ち、人類に対する愛と、罪によって死に捕らわれた人間に救いを提供しようとされる神の篤い願いから生じた事であった。
 わたしたちが今、罪の呪いと死の恐怖から解放され、感謝と喜びと希望ある歩みを為すことができるのは父なる神と御子の篤い愛と従順によるものであることを深く思い、神に対する感謝をもって今日一日の歩みを進めよう。
 

 

2012/2/28(火)担当 高谷満世師 サムエル記上11:1-11 賛美 聖歌481
 サウルがくじで王として選ばれた時、民の中にはサウルがイスラエルを守り、救う能力を持っていないとして喜んで受け入れなかった者もいた。そんな人々に対してギレアドのヤベシュの人々を通してサウルが王として適任であることを示す機会が与えられた。ヤベシュは士師時代にも軍事的に追い詰められたが、その時にイスラエルの多くの部族は助けなかった(士師12章)。今回もおそらく援軍は来ないだろうと考えられた状況において、イスラエルの民はこの危機の知らせがもたらされた時、ギレアドのために泣いたが軍事的行動を起こそうとしなかった(11:4)。しかしサウルがそれを知った時、「神の霊」が下ったため、サウルはイスラエルを招集し、民はそれに応えた。
 このサウルの姿はくじで選ばれた時に荷物の間に隠れていたサウルの姿とはまったく対照的である。神が選ばれ、指導者として立てられる時、神の力がその人に臨み、ゆだねられた働きを実行していくために整えられていく。主に選ばれて仕えるとき、自分の力ではなく、主の力によって忠実に従おう。
 

 

2012/02/29 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙2:11   賛美 聖歌229
 父なる神と、父なる神の深い愛と御旨によってご自身をささげてくださった御子は、このことのゆえに「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」と言われる。それは人を聖なる者となさる方と、聖なる者とされる人たちの間の密接な関係をあらわしている。その関係は兄弟(ロマ 8:29)、共同の相続人(ロマ8:17)等と言われている。これらのことから、わたしたちが今与えられている救いがどんなに尊く大きいものであるかを思いめぐらすことが大切である。ヨハネは「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです(?ヨハ 3: 1)」と述べている。わたしたちは恵みに慣れすぎと救いの尊さ、偉大さを軽んじるようなことがあってはならない。

 

2012/03/01(木)担当 高谷満世師 サムエル記上11:1-14 賛美 聖歌477
 神がともに居られた戦いにおいてサウルは勝利を得た。この完全な勝利を通して民の中には以前サウルの力を疑ってサウルを王として迎えることに異を唱えた人々を殺すことを提案した。しかしサウルは主のみこころを知り、救いの御業がなされた日にだれも殺してはならないとした。またイスラエルがはじめてカナンに足を踏み入れたギルガルで和解のささげ物をささげた。まさにイスラエルの中にサウルを王とすることをめぐって存在していた対立が取り除かれ、民の中での和解が成った。そして神との和解があった。
 王国の歩みは神の前において始められ、和解と一致があった。私たちも主の前に歩み続けていく時、何よりもまず人々の間での一致と神との一致を持っていなければならない。主のみこころを求めて歩もう。

 

2011/03/02(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 2:11   賛美 聖歌232
 少し長くなりますがこの節からもう一つのことを学びたいと思います。神がその無限の愛によって御子において成し遂げてくださった救いの御業を信じ受け入れた人々を主は兄弟と呼び、キリストと共同の相続人としてくださいました。それは御子と共に神の栄光にあずかる者であることを意味します。このことをパウロは「御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます(?テサ2:12b)」と述べています。しかし福音書は主イエスが次のように話されたことを記しています。「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる(マコ 8:38)」
 わたしたちの住む世はサタンの支配下にあり、十字架のもとで主イエスを嘲り罵ったように救い主を信じる者を嘲り罵るのです。それが世間の主流となっているのです。このような世にあって主を信じる者が世に対してその信仰を恥じ、主を証しすることをためらうこと無きにしもあらず、です。それに対して主は「人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」と言われます。わたしたちはどのような環境の中にあっても恥じることなく主を証し続けましょう。

 

2012/03/03(土)担当 高谷由紀子師 マコ 1:14-15 賛美 聖歌530
 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行って伝道を始められた。その第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」であった。福音は神の約束による真理の言葉、希望と平和の良きおとずれである。国家、社会、家庭が暗黒と不安のただなかにある時主は「神の国は近づいた」と、明るい希望のメッセージを語られた。世の手段によっては得られない真実の希望と平和を約束してくださった。この福音はキリストによる罪からの救いである。主は悔改めを命じられた。「自分の罪を離れて神に帰れ」という勧告である。地より目を転じて天を仰ぐことである。神と反対の方向に歩むことをやめて神の方に向かって歩むことである。「良きおとずれ、福音を信じなさい」これが主のメッセージである。