≪デボーションの友≫2023/1/30-2/4

2023/1/30(月) 担当 高谷清師 ガラ5:2-4 聖歌(総)627  聖歌 589

 パウロは「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。」と語る。この箇所についてヘルマン・ウォルフガング・バイヤーは

「キリストか、しからずんば割礼か。いまは、このあれか・これかが問われているのだ。敵対者たちは、割礼を受けても、それできみたちのキリストとの関係が損われることはない、キリストと割礼とは互いに相容れないものではないと、ガラテヤ人たちを言いくるめていたものと思われる。しかしパウロは、こうした危険極まりないあれも・これもの二心に対して、彼の権威を全面的に発動して(「見よ、わたし、このパウロが」)、厳しいあれか・これかの二者択一をつき付ける。割礼を救いに不可欠のものとして受けとろうとする者、それゆえ、ただひたすらキリストに依り頼む信頼に自己の全存在を賭ける純粋さを持たない者、このような者にとってはキリストは全くの無益無縁の存在と化する。律法や割礼への期待半分、キリストへの信頼半分というどっち付かずの態度でキリストに依り頼んでも、それは真実にキリストを信じることとは全く別の、またそれゆえキリストからもなに一つ応答を得られるはずのない、独りよがりの「信仰」に堕するのみである。」(NTD新約聖書註解8 パウロ小書簡P106-107 NTD新約聖書註解刊行会1979)

と記している。ヤコブは「ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。」(ヤコブ1:6-8口語訳)と語っている。常に真実をもって主に従おう。

2023/1/31(火)担当 ラウジー満世師 創世記27:41-28:9 賛美 聖歌(総)409聖歌409

 神の約束を受け継ぐこの家族にはまだまだ問題が山積している。ヤコブは兄から逃げることとなる。また、エサウがヘト人を妻として迎えたことに関連して、ヤコブはカナンの娘との結婚を禁じられる。とりわけ神に選ばれたアブラハムへの約束と祝福を受け継ぐ族長の家において家族を守ることが重要であった。それゆえにイサクは息子ヤコブにもかつて自分の妻をアブラハムの故郷から迎えたように、その地に住む親戚から娶ることを命じている。ここで結婚相手を故郷から迎えることには、神の約束が大きく関わっている。

 神に選ばれた家を通して神は全地が祝福に入るための計画を進められた。族長時代に神のご計画を担う家族としてのアブラハムの家において祝福を受け継ぐ者の責任は重大であった。神に選ばれた家に生まれた人々も自分の人生において選択と決断をすることは認められているが、神の御心がなされるために決断することは大切である。今の時代に神を信じて生きる私たちは主の御心が自分を通して実現されるために今日どのような選択を行うだろうか。祈りつつ主の導きに従おう。

2023/2/1(水) 担当 高谷清師 ガラ5:2-4 聖歌(総)529  聖歌 511

続いてパウロは「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。」と語る。この箇所についてヘルマン・ウォルフガング・バイヤーは

「キリストに対して中途半端な態度がありえぬことであるように、律法に対してもそうした態度でお茶を濁すことは、できない相談である。割礼を受ける決心を固めることは、すなわち律法を、それも律法の全部を自分の身に引き受けることを、否応なしに意味するのだ。割礼を、神がその民に対して結びたもうた契約のしるしとして、これを身に施されることは自分がこの契約にあずかつて救いを保証される道であると、その甘い安易な面だけで肯定し受容しておいて、もう一方の厳しい面、すなわち割礼は同時に、律法の全部を成就すべき因縁と義務を、これを施される者に負わせるものであるという事実に対して目をつむることは、まさしく片手落ちであって、すじが通らない。割礼と律法への完全無欠の服従とは、因縁をもって結ぼれた不可分の相関関係にある。それゆえガラテヤ人たちが、救いのゆえに割礼を受ける決心を固めたことは、律法の道へと足を踏み入れたことであり、かくして律法遵守の因縁と義務を身に負った彼らは、この道を最後まで一貫して歩きとおきなければならない」(NTD新約聖書註解8 パウロ小書簡P107 NTD新約聖書註解刊行会1979)

と記している。日本社会には「ええとこ取り」という考え方がある。そして日本はある程度成功してきた。しかし、神との関係においてはそれはあり得ない。

2023/2/2(木)担当 ラウジー満世師 創世記28:10-15 賛美 聖歌(総)489聖歌472

 兄エサウから逃れて伯父の家へと旅するヤコブは予期せぬ場所で驚くべき方法で神に出会う。石を枕にして野宿するヤコブに突然主が夢の中で顕れて下さった。天に達するはしごを天使たちが上り下りすることを通して天と地が結ばれた。神は家族から離れざるを得ない状況のヤコブに対して父祖たちの名を告げ、父祖の神ご自身がヤコブと共に居ること、また子孫が増え広がり祝福を受けることを語られた。まさにヤコブこそがアブラハムの祝福を受け継ぐ者であることを改めて確認された。

 神は選び、祝福を受け継ぐ者とされたヤコブを決して見捨てられない。選んだヤコブと共にあり、将来にわたって神のご計画を果たされると確約なさる。神はご自分の民と共に歩み、孤独の最中に共におられると語ってくださる。どんなときにも主が目を注いでくださっていること、また弱い時に出会ってくださるお方が私たちの主であることを覚えよう。

2023/2/3(金) 担当 高谷清師 詩 73:6-7 賛美 聖歌(総)532 聖歌 514

 詠者は悪人について「傲慢は首飾りとなり/不法は衣となって彼らを包む。目は脂肪の中から見まわし/心には悪だくみが溢れる。」と詠う。7節についてフランシスコ会訳は「かれらの目はひややかに光り/心はうぬぼれであふれでいる。」と訳し「直訳では、「かれらの目は脂肪から(のゆえに〉輝く(別訳―出ていく)。ギリシア語訳とシリア語訳は、「かれらの目」のかわりに「かれらの悪」としている。これにならう学者もかなりいる。」と記している。悪人は心の中に悪巧みを抱きつつ、傲慢と不法を衣として世を闊歩する。このような状況は神を認めることを拒む世の常であり、神を拒む人々は常に彼らに迎合する。この国においても「忖度」という言葉があふれたのは記憶に新しい。パウロは「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ロマ 12:2)と語っている。

2023/2/4(土) 担当 高谷清師 エフェ6:10-13 賛美 聖歌(総)145 聖歌 190

 パウロは悪魔との戦いの備えとして神の武具を身に着けるべきことを勧めた中で祈りの勧めにおいて「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」と述べ、御霊によって祈るべきことを命じている。また、ローマの信徒への手紙においては「“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ロマ 8:26)と語って、“霊”によって祈るべきことを教えている。“霊”は我々の真の必要をご存知であり、神と私たちの間に在って神のとりなし手であられるからである。常に御霊によって祈ろう。