≪デボーションの友≫2023/2/6-11

2023/2/6(月) 担当 高谷清師 ガラ5:2-4 聖歌(総)512  聖歌 494

 パウロは「律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。」と述べる。コリントの信徒への手紙Ⅰにおいてパウロは「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」(Ⅰコリ 1:30)と語っている。割礼を救いの不可欠の条件として受け入れることは、神がキリストにおいて与えてくださった恵みを拒み、律法を行うことによって自分の義を獲得して救いに至ろうとする道であり、そのような道を選択する者はキリストとの関係を断ち、キリストによって与えられる恵みの全てを失うのである。フィリピの信徒への手紙においてパウロは「わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」(フィリ 2:12)と語っている。終わりの日まで全力を注いで恵みの内を歩もう。

2023/2/7(火)担当 ラウジー満世師 創世記28:16-22 賛美 聖歌(総)569 聖歌545

 夢で神に出会ったヤコブの応答が記されている。思いがけない神との出会いにヤコブは恐れおののいた。神と出会う時、私たちは畏敬の念を抱く。神に出会うということは気軽な応答を引き起こすような体験ではない。被造物としての人間ではない、神に出会う時、私たちは圧倒的な畏れの念を抱く。この偉大なお方に出会う時に自然に主の前にひれ伏し、礼拝をささげるのである。それは理屈を超えた霊的な出会いの体験における礼拝である。真に、神に本当の意味において「出会う」時、礼拝を守ることが面倒だとか、都合により後から礼拝するなどと言っていられるものではない。

 主と出会う時、人は心から主を礼拝する者へと変えられる。神と向き合う時、私たちはその個人的な霊的体験を記念として残し、ここで出会ってくださった主を礼拝する。礼拝の時間を守ることが面倒だとか苦痛だという状態に陥るようなときには、まず一人で主の前に跪き、主が個人的に出会ってくださり、霊的に満たしてくださることを求めよう。その出会いから真の礼拝が生まれる。

2023/2/8(水) 担当 高谷清師 ガラ5:2-5 聖歌(総)465  聖歌 453”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。」と述べる。この箇所についてヘルマン・ウォルフガング・バイヤーは

「キリストの者たちは、自分の足が、全く別の道を歩んで義に到達すべく、百八十度の方向転換をさせられたこと、それ以外の道を歩むことは罪と死に至るほかないことの自覚を明確に与えられているのである。キリストの者である「このわたしたち」の心には神の御霊によって信仰が与えられ、キリストにある神の約束を「いまだ見ざるままに」キャッチする。この信仰に立ってわたしたちは、義を来たるべき約束の賜物として確かな確信と希望をもって待ち望むのである。」(NTD新約聖書註解8 パウロ小書簡P108 NTD新約聖書註解刊行会1979)

と記している。黒崎幸吉師がその著書に「信仰もまた神の賜物である」と記しておられるのを目にした記憶がある。「私たちが救われるのは信仰によるのであって行いは必要ではない」という言葉をしばしば耳にする。私たちが福音に対して心を開く時、神は聖霊を賜り、私たちの心に信仰を創造し、救いを成就してくださるのである。

2023/2/9(木)担当 ラウジー満世師 創世記28:16-22 賛美 聖歌(総)577聖歌553

 主に出会ったヤコブはそこに石を置いて記念とした。ヤコブは神が守り、衣食の必要を満たしてくださることを確信し、受けた恵みを感謝した。またさらに先の知れない長い旅の後でいつの日か自分の父親の家に帰らせてくださることを願い、神にささげものをささげた。感謝のささげもの、誓願のささげものとして、彼は十分の一をささげている。

 神を礼拝すること、神にささげものを献げることはノルマや強制ではない。これはまさに神と出会い、神の祝福を実際に体験した人が神に対して表すことが出来る喜びの応答である。このように応答できるという事実もまた大きな恵みなのである。私たちの意識は神の奇跡と恵みを受け取ることに集中しやすい。しかし、ささげること、神から与えられたものを感謝と喜びをもって神にお返しして差し出すことが出来るのもまた大きな喜びに満ちた祝福である。喜んでささげ得る者になりたい。

2023/2/10(金) 担当 高谷清師 詩 73:8-9 賛美 聖歌(総)538 聖歌 520

 詩人は「73:8 彼らは侮り、災いをもたらそうと定め/高く構え、暴力を振るおうと定める。 73:9 口を天に置き/舌は地を行く。」と詠う。この箇所を新改訳聖書は「73:8 彼らは嘲り悪意をもって語り高い所から虐げを言う。73:9 彼らはその口を天にすえ、その舌は地を行き巡る。」と訳し、ATDは「73:8 彼らは嘲り、悪意を持って語り、高ぶって(愚かなこと)を語る。73:9 彼らの弁舌は天にまで届き、彼らの舌は地上を歩きまわる。」と訳している。この箇所についてA. ヴァイザーは

「彼らは神と世界を語るとき、自分たちの倒錯を全然感ぜず、威張りくさって大言壮語し、何ものもはばからないで悪口を述べる。人間のおごりの結果である畏敬の欠如――9節はこれを軽蔑的な調子できめつけている――、それはこの場合もまた、いわゆる啓蒙思想すべてに見られる典型的な随伴現象であった。」『ATD旧約聖書註解詩篇中P217-218』ATD・NTD聖書註解刊行会1985)

と述べている。

詩編は2:1「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち/人々はむなしく声をあげるのか。

 2:2 なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して/主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか

 2:3 「我らは、枷をはずし/縄を切って投げ捨てよう」と。

 2:4 天を王座とする方は笑い/主は彼らを嘲り

 2:5 憤って、恐怖に落とし/怒って、彼らに宣言される。

 2:6 「聖なる山シオンで/わたしは自ら、王を即位させた。」

と詠っている。またパウロは「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(Ⅰコリ 1:25)と語っている。悪人のようにではなく、謙遜に、慎み深く歩もう。

2023/2/11(土) 担当 高谷清師 使徒言行録16-16-34 賛美 聖歌(総)462 聖歌 450  パウロとシラスは不当な恨みによって鞭打たれ、牢に投げ込まれた。彼らは危機に直面したのである。しかし二人は危機の中に在っても動揺することなく、牢に投げ込んだ者たちに対する憎しみを口のすることもなく、神を賛美し、祈り続けた。その讃美と祈りは牢の収容者たちの魂をも捕らえた。その時、神は奇跡をもって応えられた。獄屋の戸は開き、足かせは破壊された。しかし、誰一人逃げ出す者はいなかった。普段、信仰の道を説き、信仰深そうにふるまいながら、一旦危機に直面すると普段の言動と振る舞いは何処へやら、右往左往してなりふり構わず世的解決の道を求めて東奔西走する姿を目にすることが多い。しかし信仰者はそうであってはならない。詩篇の詠者は「民よ、どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。」(詩 62:9)と詠っている。