≪デボーションの友≫2023/2/13-18

2023/2/13(月) 担当 高谷清師 ガラ5:2-6 聖歌(総)435  聖歌 433

 続いてパウロは「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」と語る。ヨハネは「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(Ⅰヨハ4:16)と語り、「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」(Ⅰヨハ4:19-20)と語っている。更にヤコブは「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。」(ヤコブ 2:18)と述べている。キリスト・イエスに結ばれている―キリストによって成就された救いの内にある―ならば、愛の実践を伴う信仰に生きるのである。そこには割礼の有無は問題ではない。

2023/2/14(火)担当 ラウジー満世師 創世記29:1-14 賛美 聖歌(総)516聖歌498

 ヤコブがラバンの家に着き、そこでの暮らしの中での出来事が語られる。いくつかの出来事が語られていくが、それらは非常に人間臭い。ヤコブの生涯はこれまでも争いと欺きに満ちていたが、それはラバンのもとに来てからも基本的に変わりがない。違いはヤコブが欺かれるという立場に立つことも起こったという点である。

 ヤコブが東方の人々の土地に着いた時、かつてのアブラハムの僕と同様に井戸で人々に出会っている。ヤコブはこの土地の人々と井戸で自然に出会い、人々を観察し、会話しながらその土地の井戸の使い方の作法を知り、伯父ラバンのことについても情報を集める。さらに、もう少しするとこの場所にヤコブのいとこにあたるラバンの娘がやってくることも知った。人々の出会いと対話、そして人々にもう一度井戸から離れて羊に草を食べさせたら良いという提案の裏に、どこまで彼の計算が働いていたかは分からない。しかし、自然に進んで行く場面の中で、彼は身内に会うために備えを整えていくことが出来た。

 日常生活では神の働きと導きが明確に見えない場合が殆どである。しかし特別ではない時間を通しても神は将来のために私たちを整えて下さる。

2023/2/15(水) 担当 高谷清師 ガラ5:7-9 聖歌(総)512  聖歌 494

 かつてのガラテヤ人たちは真理の大道を立派に走っていたのに、どうして真理からそれて迷いの道に入り込んでしまったのであろうか。ガラテヤ人たちが気を緩め、真理から目をそらした隙に誘惑者達は入り込んだのである。彼らは真理から出た者ではなく、悪魔から出たものである。イエスは「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」(マタ  16:11)と教えておられる。更に主は「パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」(ルカ  13:21)と教えられた。この句は「神の国」の文脈の中で語られたものであるが、私たちの場合にも当てはまるであろう。更にパウロは「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。」(Ⅱコリ 13:5)と語っている。常に主イエスから目をそらさず、自らを吟味しつつ、真理の内を歩もう。

2023/2/16(木)担当 ラウジー満世師 創世記29:1-14 賛美 新聖歌389 聖歌502

 ヤコブはこの井戸でラケルと出会った。伯父の羊の群れが井戸の傍に集まった時に石を転がして井戸のふたを開けた。ヤコブが親戚であることを知ったリベカが父ラバンに知らせた。二人はごく自然な形で対面を果たした。伯父の家でヤコブは事の次第をすべて話した。これは24章のアブラハムの僕の時の情景を思い起こす状況である。ラバンにとっては甥と名乗り、突然目の前に現れた遠くの土地の人間が家族であることを確認し、受け入れるためには詳細な事情説明が求められた。ヤコブが時間をかけてしっかりと事の次第を伝えた。その時にラバンはその事実を確認し、ようやく自分の「骨肉の者(29:14)」として受け入れることができた。

 この一連の出会いの出来事はシャロームを問う(「元気でしょうか」)ことから始まっている。このシャロームはごく自然な社会の営みであるが、背後には神の導きがある。見えざる神の御手をしっかりと見極めたい。

2023/2/17(金) 担当 高谷清師 詩 73:10 賛美 聖歌(総)508 聖歌 490

 詩人は「(民がここに戻っても/水を見つけることはできないであろう。)」と詠う。この箇所を聖書協会・共同訳は「それゆえ、民はここに帰り/彼らの言葉を水のように貪る。」と訳し、【新改訳改訂3】は「それゆえ、その民は、ここに帰り、豊かな水は、彼らによって飲み干された。」と訳している。また【フランシスコ会訳】は「それゆえ、神の民はかれらに走り、/そのなめらかなことばをうのみにする。」と訳し、本節は難解である。「それゆえかれらはその富に飽き飽きしている。かれらには豊かな水が流れる」と別に修正して読む者もいる。」と述べている。この箇所についてA. ヴァイザーは「人間がもっぱら自分だけが事象の中心にいると見て自分を崇拝し、万事を理性の力に屈服させようと試みるものである。こういう啓蒙家たちが、民衆の間で大いに受けるのも怪しむに足りない。」『ATD旧約聖書註解詩篇中P218』ATD・NTD聖書註解刊行会1985)と述べている。パウロは「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。」(Ⅰコリ 8:2)と語っている。神の前に、謙遜に歩もう。

2023/2/18(土) 担当 高谷清師 エフェ6:18-20 賛美 聖歌(総)232 聖歌 256

 パウロは獄中からエフェソの人々に送った手紙において「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」と語っている。私たちはどのような時にも、私たちが神の御心を理解し得ず、心が苦しみに満ちている時にも祈るように命じられているのである。アブラハムは神に約束によって長年待ち望んだ末に、アブラハムとサラは年老い人間的には絶望の域に達した時にイサクを与えられた。イサクはアブラハム夫妻にとって最愛の子であり信仰の証であり希望であった。こともあろうに、神はこのイサクを焼き尽くす献げ物としてささげるように求められたのである。人間的には余りにも過酷な求めであり、不信の念を抱かせかねない求めであった。しかし、アブラハム夫妻は神の前に祈り続けたのである。そして確信に導かれ、従い、栄光に与ったのである。私たちも、どんな時にも祈り続ける者となろう。