≪デボーションの友≫2023/1/23-28

2023/1/23(月) 担当 高谷清師 ガラ5:1 聖歌(総)465  聖歌 453

 本テキストにおいてパウロは「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」と語っている。「この自由」について偉大な改革者ルターの書を中心に学んできた。主イエスは「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハ8:31-32)と語っておられる。そしてパウロは「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラ2:19-20)と語っている。神による自由―それはキリストの十字架による贖いの恵みによるものであり、キリストを信じる信仰によって私たちの内に与えられるものである。

2023/1/24(火)担当 ラウジー満世師 創世記27:1-29 賛美 聖歌(総合)465聖歌453

 創世記において「祝福」はある人が去っていくときに引き継がれる。一世代だけに関わるのではなく、父から子へと引き継がれていく。イサクも高齢になり体が衰えた時に祝福を受け継ぐべき長男エサウに与えようとした。しかしこの時はリベカとヤコブの策略によって簡単に本来の継承者ではないヤコブに受け継がれた。狡猾な手段で兄の祝福を奪い取った二人をどう受け止めればよいのか、困惑する。ヤコブが祝福を継いだところで彼を人間的に愛し、尊敬することは難しい。にもかかわらず、神はこのことが起こるに任されたようである。同時に、誕生の時から通常に反して兄が弟に仕えることを神は告げておられたことをよく考えると、祝福が奪われた事態も神の計画であったのだろうかと思わされる。

 しかし一度ヤコブに受け継がれた祝福は父とエサウの力によって白紙に戻してあらためて兄に引き継ぐというようなものでもない。神のご計画は時として私たちの理解を越え、感情を乱すような方法で成就することもある。満足できる説明も与えられない場面もあろう。人の理解を越えて神の御心が行われる場合もあることを知り、なおも神を求めていきたい。

2023/1/25(水) 担当 高谷清師 ガラ5:1 聖歌(総)439  聖歌 437

 次いでパウロは「しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」と勧告する。「奴隷の軛」についてはいろいろのものが考えられるであろう。異邦人であるガラテヤ人が信仰を得る以前に繋がれていた軛は偶像(Ⅰコリ 12:2)であったであろうし、パウロがここにおいて語っている軛は律法である。また救われたキリスト者が常に直面する軛は「自分」である。主イエスは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカ 9:23)と語っておられる。自分を捨てたはずのキリスト者も、油断をし、キリストから目をそらす時、立つべき基盤を見失い、金銭欲、物質欲、名誉欲、出世欲、地位欲、・・・・・様々な我欲に捕われる。そこからカルトは生まれる。彼らは「聖書を語る」というが聖書の真意は語らず、聖書の言葉を用いて自己の欲望を語る。彼らは「聖書の勉強をしましょう」と人々を誘う。ヨハネは「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。」(Ⅰヨハ 4:1-3)と語っている。自由の与え主、主イエスに目を注ぎ、霊を判別し、いかなる奴隷の軛にも繋がれないように歩もう。

2023/1/26(木)担当 ラウジー満世師 創世記27:30-40 賛美 聖歌(総)397聖歌397

 ヤコブが兄エサウに受け継がれるべき祝福を奪い取った後で兄が父のもとに戻った。ようやく父と兄は事の次第を悟る。リベカとヤコブの策略によって本来正当な継承者へと祝福が受け継がれなかったという重大な事態を二人は知った。欺かれた父と長男の苦悩と落胆は非常に大きなものであった。にもかかわらず、神から与えられて代々父から長男へと引き継がれてきた祝福をヤコブから取り返し、間違いを訂正することは不可能である。二人もこれをよく理解していた故に嘆いている。私たちは誕生の時からヤコブが神に選ばれていることを知っているにもかかわらず、イサクとエサウの嘆きを見るとヤコブへの怒りが湧く。しかしこの理不尽な経験をした父とエサウにも神はかすかな希望を祈りの中で与えている。いつの日かエサウは自分の軛を振り落とす、と。理不尽な中に生きることを神の計画の中で強いられた人にも神は憐れみを与えて下さる。どこに置かれても、どれほど小さな者であっても神に希望を見出したい。

2023/1/27(金) 担当 高谷清師 詩 73:4-5 賛美 聖歌(総)463 聖歌 451

 4節から12節は悪しき人について語っている。4-5節は彼らの外観的幸福である。彼らは死ぬまで苦しみを知らず、体も肥えている。だれにもある労苦すら彼らにはなく、だれもがかかる病も彼らには触れない。このような状態を見て詩人は嫉妬した。この箇所についてA. ヴァイザーは

「彼の描く悪人像は、素朴な人間の一面的な視野からの観察によっていて、自分自身の人生に拒まれているものだけを羨んで見ている。すなわち、富と幸福、健康と単なる享楽である。その際彼は、こういう者の人生といえども決して憂いと無縁に送れないことを見てはいない。」『ATD旧約聖書註解詩篇中P217』ATD・NTD聖書註解刊行会1985)

と述べている。先日ネットは30代で起業し、身を粉にして働き、環境にも恵まれ、40代半ばにして特に努力しなくても1000万/月くらいの収入を得、欲しかったものはあらかた手にし、増え続ける預金残高を目にしつつ仕事に対する情熱を失い、虚しさを訴える人の記事が掲載されていた。識者によるとこのような事例は今日、殊更珍しいものではないと言うのである。続く物価上昇の中で苦闘する庶民にとっては羨ましい話であるが、人生の真実を示している。主イエスは「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」(ルカ12:15)と語っておられる。魂への愛に生きよう。

2023/1/28(土) 担当 高谷清師 ルカ22:39-46 賛美 聖歌(総)654 聖歌 609

 イエスは最後の晩餐の後、オリーブ山において「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と祈られた。主は十字架において血を流し、死に、それによって罪の贖いを成し遂げることがご自分の使命であることを自覚しておられた。しかしそれは御子にとっても想像を絶する痛みであり苦難であった。主は神のみ前にひざまずき「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と祈られた。「この杯をわたしから取りのけてください」という祈りは聞き入れられず、「御心のままに行ってください。」という祈りが聞き入れられたのである。イザヤは「彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。」(イザ 53:11)と語っている。聞き入れられる祈り、それは神の御心に適う祈りであり、一時、苦難を伴うこともある。しかしそこには天使の力づけがあり、永遠の喜びがある。