2013/10/28-11/2

 

2013/10/28(月) 担当高谷清師 ?コリ2:10-13 賛美 聖歌281・聖歌538
 「隠されていた、神秘としての神の知恵」を私たちが知り得たのは、「神が“霊”によってそのことを明らかに示して」くださったからである。人が自らの思索、探求や修行によって悟り得たものではない。それ故に人は誇ってはならない。キリスト者である自分は、特別な能力や洞察力を持っているなどと、主張してはならない。
 さらにパウロは御霊について「“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます」と語る。御霊は神ご自身であられる故、神の摂理の最も深いところ、すべてをご存知であり、私たちに対して必要なすべてを啓示してくださるのである。私たちは御霊が啓示してくださる以上のものを求めてはならない。それはエデンの園における誘惑であり、バベルの塔である。主は「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである(マタ 5:37)」と教えておられる。ただ聖霊にお委ねして謙虚に歩みたい。

 

2013/10/29(火)担当 ラウジー満世師 列王記下6:8-7:2 賛美 新聖歌302 聖歌487
 ここでは一転してアラムの王がイスラエルの都、サマリアを包囲している。この戦いにより、包囲されたサマリアでは食物がつき、飢饉に見舞われ、食物の価格が高騰していた。そして子どもを食べてまで飢えをしのぐという状況に陥っていた。女からの訴えを聞いてもどうにもならない状況を前にして王が衣を裂いたとき、王が悔い改めを象徴する荒布を身に着けていた。それでも神はこの状況には沈黙しておられた。王は預言者エリシャに対する怒りと敵意を募らせ、彼を殺そうとした。ぎりぎりの状況において、王はエリシャを殺そうとしてエリシャの家を訪ねていったようであるが、ドア越しに話したエリシャの言葉を最終的に受け入れなかった(7:1-2)。
 神に信頼すること。その大切さはしばしば御言葉で語られ、実際に信頼するように勧められる。しかし、本当にぎりぎりの状況において信頼しているだろうか?それは危機において明らかにされる。そのときになって信仰を持とうとしても無理である。普段から御言葉に親しみ、あらゆることで神を頼ることを選択していこう。

 

2013/10/30 (水) 担当 高谷清師 ?コリ2:10-13 賛美 新聖歌38・聖歌195
 続いてパウロは「人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません」と語る。今日私たちの日常生活において多くの問題が起こってくる。その多くがコミュニケーションの不足に起因している。人間同士であっても互いに理解し合うのは難しい。まして、人間の霊をもって神の御心を理解することは不可能である。神の御心は聖霊の証しによってのみ、理解することができるのである。聖書は神の言葉であり、福音を証し、私たちを救いに導き、命を与える。しかし聖霊を否定し、聖霊に心開かずして聖書を読んでも救いに至ることはできない。心を開いて聖霊を受け入れ、聖霊の証しと導きによって聖書を読む時神の言葉は生きて働くのである。

 

2013/10/31(木)担当 ラウジー満世師 列王記下7:3-7:2 賛美 新聖歌388 聖歌338
 切羽詰った状況の中で、王は預言者エリシャが語った神の言葉を信じることができなかった。その神の言葉が真実であることを最初に体験したのは、神の言葉を聞いていなかった人々であった。城門の入り口にいた重い皮膚病患者たちがたまたまアラムの陣営のほうへ行ったときに発見した。彼らは無人のアラム陣営から物を運び出した後、彼らを通してこのニュースが王の元にも届くが、王はこのことを聞いてもなおすぐには信じなかった。王とエリシャの言葉を信じなかった王の従者はようやく神の言葉が成就したことを知った。しかし、その実現はこの従者が食べものを目にすることだけではなく、それを食べることができないという部分をも含めたものであった。
 神は人間には想像もつかない方法で働かれ、救ってくださる。目に見える状況を見ながら神の言葉を聞くとき、人間の常識では到底起こりえないことを主が行われると宣言されることがある。それを信じることは大きなチャレンジである。しかしそのときこそ、わたしたちの「神は全能である」という知識を、信仰として働かせるべきときである。知識を蓄えるだけではなく、信仰者として生きる者になりたい。

 

2013/11/1(金) 担当高谷清師 ?コリ2:10-13  賛美 新聖歌414・聖歌572
 パウロは「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです」と語る。神はご自身が選ばれた者に聖霊を注かれた。聖霊を注がれた者は、それによって隠されていた、神秘としての神の知恵―福音を啓示され、信仰へと導かれ、永遠の命を与えられたのである。福音を啓示され、信仰へと導かれ、与えられたものの素晴らしさについてパウロは「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように(エフェ 1:17-19)」と述べている。神が、聖霊によって心の目を開き、私たちに与えられている恵みの素晴らしさを知らしめ、信仰を確固不動のものとしてくださるように。

 

2013/10/26(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 10:25-28 賛美 新聖歌216・聖歌393
 ある律法の専門家が主イエスに「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と質問しました。主イエスが彼に「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われたので彼は「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」と答えました。それに対して主は「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と言われました。
 主イエスは全世界の人々を愛してその救いのために十字架についてくださいました。この主が「隣人を自分のように愛しなさい」と言われたのです。私たちが会ったこともない世界の人々をではなくあなたの傍にいる隣人―家族、地域、学校、職場―日々接触する人々を自分のように愛しなさいと言われたのです。主からの愛を受けてそれらの人々を愛することのできる人になりましょう。