2013/11/4-9

 

2013/11/4(月) 担当高谷清師 ?コリ2:10-13 賛美 新聖歌407・聖歌567
 12節において神から恵みとして与えられたもの―福音―を知ったのは、神からの霊を受けた事によることを語ったパウロは、「わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています」と語る。それ故、パウロは福音を述べ伝えるにあたって、人の知恵に教えられた言葉―当時もてはやされた、修辞学を駆使して美辞麗句で飾り立てた言葉―によってではなく、“霊”に教えられた言葉によって語ったのである。「つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです」と語る。この箇所をフランシスコ会訳聖書は「神の霊に導かれて生きている人々に霊的なことを解き明かしています」と訳している。福音は霊的なものであり、それ故、神の霊に導かれて生きる時にのみ、私たちの力となるのである。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です(?コリ1:18)」と述べたとおりである。肉によってではなく、霊によって歩もう。

 

2013/11/5(火)担当 ラウジー満世師 列王記下8:1-6 賛美 新聖歌427・歌520
 かつてエリシャの祈りを通して子どもをよみがえらせてもらった女が(4:18-37)再び登場する。エリシャがこの女に飢饉を逃れるために移住するよう勧めてから七年経って女は故郷に帰ろうとした。そのためにかつての財産を返却してもらいたいと王に願い出た。一方、この女の知らないところでゲハジは王にかつてのエリシャの働きを語り聞かせていた。もちろんこの女のこどもが生き返らせてもらったことも話していた。ちょうどそのとき女が財産返却を王に願い出てきた。まったくの偶然であったが、王は願い出たこの女がかつてエリシャの奇跡を体験した人であることを知って、すぐに財産を返還した。
 女にとっても王にとっても、またゲハジにとってもここに記されている出来事は偶然に、絶妙のタイミングで起こった。しかし、事の背後にあって確かに神の御手が働いていた。神は人間にはっきりとわかる方法で奇跡を起こされることもあれば、当事者がまったく気付かぬところで働かれることもある。また、かつての御業が語られるときに信仰が奮い立たせられ、行動へと導かれることもある。
 今日の何気ない出来事の中にも神が背後で働いておられる。主に感謝をささげつつ、今日を歩もう。

 

2013/11/6 (水) 担当 高谷清師 ?コリ2: 14-16 賛美 新聖歌433
 「自然の人」は言語の意味は「動物である人間」であり、「御霊を持たない人間」のことをさしており、「肉欲と官能に溺れている者」「罪深い」という意味には使っていない。視野がこの世に限定されている人、霊的洞察力が欠如している人をさしており、いわゆる「世のことに賢い人」である。主が不正な管理人のたとえで語られた「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている(ルカ 16: 8)」と言う御言葉を思い起こす。このような「賢さ」による成功者は多い。彼らは視野がこの世に限定されているために霊に属する事柄―福音―を受け入れることができない。そしてその「成功」の故にその困難度はさらに増大する。それ故に福音宣教は御霊による以外には不可能である。常に主に結ばれ、御霊に満たされ、御言葉を伝えよう。自らの知識、自らの説得力を頼んではならない。

 

2013/11/7(木)担当 ラウジー満世師 列王記下8:7-15 賛美 新聖歌165
 アラムの王は病気にかかったとき、エリシャにハザエルを送って自分の病気について尋ねた。この王はへりくだって尋ねたが、エリシャの答えは決して王に好意的なものではなかった。神はエリシャを通してアラムの王、ベン・ハダトに代わってハザエルがアラムの王となり、将来的にイスラエルはこの新しいアラムの王の下で災いを経験することを語った。
 なぜ神はイスラエルの上に災いを下されるのか。また、エリシャを通してそれを災いをもたらす本人であるハザエルに告げられるのか。イスラエルを苦しめる者をどうして神自らがアラムの王とされるのか。疑問は尽きない。しかしこのところを通して、神の民だけではなく、世界のすべての人々、国々が神の主権の元にあることを改めて思い起こさせられる。全地を造られた主は全地を治める主でもある。

 

2013/11/8(金) 担当高谷清師 ?コリ2:10-13  賛美 新聖歌321・聖歌508
 人間の肉による判断からその権威を取り去ったパウロは「霊の人は一切を判断する」と語る。「一切を判断する」のは御霊の働きである。「霊の人」とは、御霊によって主イエスを信じ、新しく生まれた人である。真実のことは何かを知るため、主から照明を受けた者である。それにとどまらず、主から判別の霊をもさずかっている者である。それ故、「霊の人」は御言葉に従う人であり、御言葉に従って一切を判断するのである。その判断が人間的な思い・願望によって左右されることはないのである。しかし、御霊に捕えられ、真理を示され、福音を受け入れ、信じて新しく生まれた私たちも、多くの点において無知であり、誤りを犯しやすい者であることを痛感させられるのが現実である。私たちは授かった信仰に応じて正しく確実に判断できるのであり、それを越えることについては軽々しく肉による判断をすべきではない。主もまた「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである(マタ 5: 37)」と教えておられる。主のみ前に謙虚になり、真実に歩もう。

 

2013/11/9(土)担当 高谷由紀子師  マルコ12:41-44  新聖歌391・聖歌541 
 賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた主は、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れたのを見て、弟子たちを呼び寄せて「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」と言われた。一枚は自分のために取っておいても当然であろうと思われる。しかしやもめはもっているレプトン銅貨二枚を全部献げた。これは律法に定められた義務としての献げものではなく、主に対する愛と信仰による献げものであった。神にすべてを献げる愛と、神以外の何ものにも頼らず、自分を無条件に神に委ねた信仰は主の御旨に適っている。律法に定められたものを義務的にささげる律法学者たちとは対照的な信仰の姿であった。私たちも常に神への溢れる愛と感謝と信仰によって献げる者でありたい。