2013/11/11-16

 

2013/11/11(月) 担当高谷清師 ?コリ2:14-16 賛美 新聖歌390・聖歌511
 さらにパウロは「その人(霊の人)自身はだれからも判断されたりしません」と述べる。4章においては「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです(?コリ4:3-4)」と述べている。自然の人は神の霊を受けていないのだから、神の霊に属することは理解できない、それは彼にとって愚かなことである。したがって霊の人を理解することはできない。
 キリスト者が御霊に従って生きようとする時、世から多くの批判、非難、中傷を受けることがある。しかし私たちはそれを気にかける必要はない。それらの批判、非難、中傷受け止め、吟味することは大切である。しかし自らの歩みが御霊の導きであると確信するなら、従い通すべきである。世と妥協してはならない。

 

2013/11/12(火)担当 ラウジー満世師 列王記下8:16-24 賛美 新聖歌389 聖歌502
 ユダの王ヨラムの治世について記されている。8年間ヨラムはユダを治めたが、その間にエドムが反乱を起こし、(テキストが明確ではないが)最終的にはエドムがユダの支配から独立した。ヨラムの治世にユダが国際的にも力を失っていった様子が伺える。
 このヨラムの治世にユダは主からも離れていた。彼はすでに偶像礼拝に大きな影響を受けていた北イスラエルの王家と婚姻関係を結び、その関係を通してユダでも偶像礼拝を行うようになった。神に喜ばれることではなかった。しかし忍耐強く、真実な神はダビデとその子孫への約束のゆえに神から離れていくユダを滅ぼすことは思いとどまっておられた。
 神から心が離れていても実生活においては神の祝福が変わりなく注がれているときがある。しかし、それは神から離れる心を神が良しとされているわけではない。ただ神の憐れみと忍耐によりその恵みを受けているだけである。常に自らを省み、心から主を愛し、主の御心にかなう歩みをしていきたい。

 

2013/11/13 (水) 担当 高谷清師 ?コリ2: 14-16 賛美 新聖歌394・聖歌295
 イザヤは「主の霊を測りうる者があろうか。主の企てを知らされる者があろうか。主に助言し、理解させ、裁きの道を教え、知識を与え、英知の道を知らせうる者があろうか。(イザ 40:13-14)」と述べている。それを念頭に、パウロは「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」と語り、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられた、隠されていた、神秘としての神の知恵―福音―が自然の人の思いをはるかに超えたものであることを教えようとする。そして御霊を受けた霊の人である私たちは「キリストの思いを抱いています」と語る。この箇所をフランシスコ会訳は「私たちはキリストの心を心としているのです」と訳している。
 キリスト者は世の思い、肉の思いを自分の心として肉の欲望に生きるのではなく、キリストの心を自分の心として歩むことが大切である。そのためにはいかなる時にも御霊に従う者でなければならない。

 

2013/11/14(木)担当 ラウジー満世師 列王記下8:25-29 賛美 新聖歌458 聖歌514
 ヨラムに続いてアハズヤがユダの王となった。アハズヤもヨラム同様に北王国の王家と姻戚関係にあった。そして聖書はこの関係を通してアハズヤもまた北王国同様に偶像礼拝を受け入れ、神に喜ばれない道を歩んだと記されている。
 イスラエルの歴史を通して、常に神は偶像礼拝をする人々と共に住むことを禁じられてきた。それはイスラエルが神から離れて罪を犯すことがないためであった。しかし現実にはここで記されているアハズヤとヨラムだけではなく、多くのイスラエルとユダの王が異教の妻を娶ったことにより、その心が神から離れていった。
 二心なく神に仕えることを神の民は求められていた。そのことをイスラエルとユダの民もまたよく知っていた。にもかかわらずさまざまな人間関係を通して偶像礼拝は彼らの心に入り込んできた。今日、わたしたちが神に対する信仰を守り続けるために、どう歩めばよいだろうか。クリスチャンの少ない日本にあって、純粋な信仰もまた神が守ってくださるよう祈りもとめて歩もう。

 

2013/11/15(金) 担当高谷清師 ?コリ2: 2:14-16  賛美 新聖歌384
 「キリストの思い」「キリストの心」についてパウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした(ピリ 2:6-8)」と述べている。このことから「キリストの心」とは徹底的なへりくだりと謙遜、御言葉に対する完全な服従であることが分かる。私たちも主のみ前に全きへりくだりと謙遜、御言葉に対する従順をもって歩もう。

 

2013/10/5(土)担当 高谷由紀子師 マコ6:1-6 賛美 新聖歌324・聖歌496
 主イエスは故郷に帰って安息日に教えられた。人々はそこで主の教えを聞いて驚いた。しかし故郷の人々は「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」(2節)と言ってイエスが神の子であることを理解することも受け入れることもできなかった。この人々にとって主イエスはただのナザレ人であり、大工の息子にすぎなかった。主は信仰のないところでは御業を行うことができなかった。
 主が求められることは「ただ信じなさい」ということである。