2013/11/18-23

 

2013/11/18(月) 担当高谷清師 ?コリ3:1-4 賛美 新聖歌229
 パウロはコリントの教会の聖徒たちについて「相変わらず肉の人だからです」と語る。コリント教会には、お互いの間にねたみや争いが絶えなかった。ガラテヤ書においてパウロは「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません(ガラ 5:19-21)」と述べている。「お互いの間にねたみや争いが絶えない」のは、彼らが「肉の人」であることの証拠であり、そうであれば彼らは神の国を受け継ぐことはできない人々であった。しかしパウロは「兄弟たち」、即ち、共に神の国を嗣ぐ者として呼びかけている。これについてカルヴァンは「かれらがまったく肉につける者であってかれらの中には御霊のきらめきは全然ない有様だとは言っていない。ただ、肉の思いがかれらの中にはまだあまりにもみちみちているため、肉が霊を圧倒し、霊の光をもう少しで押しころしそうな勢いだと言うのである。だから、かれらとて、まったく恵みに欠けている者ではないわけであるが、かれらのうちには霊よりも肉の要素が多いため、かれらは肉の人であると言われているのである(カルヴァン新約聖書注解?コリント前書P74)」と述べている。
 私たちは「クリスチャン」と言いながら「クリスチャンらしくない人」に戸惑うことがある。しかしそれらの人々を軽々しく裁いてはならない。

 

2013/11/19(火)担当 ラウジー満世師 列王記下9:1-16 賛美 新聖歌270・聖歌468
 北イスラエルの王、ヨラムの時代が突然終わりを告げる。この出来事は預言者エリシャが仲間の一人を送ってイエフに油を注ぐことから始まる。北イスラエルではすでにダビデの家の出身ではない王が治めており、偶像礼拝が蔓延していたが、この王国にもまた神が背後にあって働いておられた。ヨラムが知らぬ間にイエフは神によって選ばれた者として王となるために油を注がれていた。そして彼らがとどまっていたラモト・ギレアドにいたユダに軍はイエフを王として受け入れ、瞬く間にヨラムに対して反乱を起こす者となった。ヨラムにとってはラモト・ギレアドにおいてこのような反乱が起ころうとはまったく予期していなかった。アラム兵によって傷を負ったが、自分の治世がまもなく終わるとは考えてもいなかった。
 神が御心にしたがって立ち上がられるとき、考えもしなかったことが起こる。まことに神は全地を治める方、主権者である。主を恐れ、主に従おう。

 

2013/11/20 (水) 担当 高谷清師 ?コリ3:1-4 賛美 新聖歌263・聖歌464
 パウロは「肉の人」をキリストとの関係では「乳飲み子」と言っている。生まれながらの、罪人としての歩みの中から、恵みによってキリストに出会い、信仰を与えられ、救いに与かった者は、新しい命を与えられ、神の子とされたのである。しかし「乳飲み子」に対しては、信仰に成熟した人たちの間で語られる知恵―隠されていた、神秘としての神の知恵―をストレートに語ることができなかった。「乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません(ヘブ 5:13)」と語られているように、「乳飲み子」にはそれを理解する力がないからである。
 私たちが福音を語る時、相手の霊的成熟度を理解し、十分に配慮することが求められる。

 

2013/11/21(木)担当 ラウジー満世師 列王記下9:17-29 賛美 新聖歌427・聖歌520
 ここから10章にかけて、次々とヨラムと北王国の人々に対する暴力と殺害が記録されている。その中で最初に記されているのは北王国の王ヨラムと南王国の王アハズヤの死である。ヨラムは塔からイエフが戻ってくるのを認めたときに、使者を送って道中「無事(シャローム)」であったかと尋ねる。最終的に自分がイエフに出会ったときにもシャロームを尋ねる。戦いにおいてイエフは確かに無事であった。しかし、彼はヨラムに対して北王国に偶像礼拝がはびこっているのにシャロームなわけがないと答えた。
 明らかにここでイエフは「シャローム」とは何かを別の方法で解釈している。国は戦いに勝った。その意味では「シャローム」は達せられた。しかし、本当の意味で神が建てられた北王国に「シャローム」はなかった。
 神との関係に生きる人々が本当の意味でシャロームであるというのは、神との関係において守るべきことが守られ、破れがない状態である。今日あなたと神の間には「シャローム」があるだろうか。

 

2013/11/22(金) 担当高谷清師 ?コリ3:1-4  賛美 新聖歌339・聖歌589
 新しく生まれたばかりのキリスト者は霊的な乳飲み子であり、固い物を口にすることはできない。したがってパウロは彼らに乳を飲ませて、固い食物は与えなかった。しかし乳飲み子は時の経過とともに成長することが求められる。コリントの聖徒たちは、パウロが「今でもできません」と述べているように、時の経過にふさわしい成長を遂げてはいなかった。ヘブル書の記者が「実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです(ヘブ 5:12)」と述べていることから、ヘブル人の教会においても同じような状況があったことが推測される。「あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに」という言葉から、キリスト者は、導かれる者から導く者へ、教えられる者から教える者へ、と成長することが期待されている。その成長は御言葉と、祈りと、正しい信仰生活によって達成されていくのである。日々主の前に励もう。

 

2013/10/5(土)担当 高谷由紀子師 マコ6:53-56 賛美 新聖歌434・聖歌525
 当時の群衆は飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている状態であった。(マタイ9:6)。主イエスはこのような群集を深く憐れみ、病める人々を癒し、空腹の人々には食物を与えられた。イエスのこの御業は多くの人々に知られ、人々はイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。このように当時の人々は飢え渇いていたのである。
 今日は、国民の70%が病んでおり、その大半が心の病であると言われる時代である。多くの人々の間に絶望感と飢え渇きが広がっている。これを満たし、癒すことのできるのは眞の福音だけである。この福音を証しするものとなろう。