2021/8/30-9/4

 2021/8/30(月) 担当 高谷清師 コロ3:12-17 賛美 新聖歌 427

 パウロは「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」と語る。エフェソの信徒への手紙においては「そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」(エフェ5:20)と述べている。この箇所についてカルヴァンは「彼は、われわれが言いあるいはなすことがすべてキリストの指導によって制御され、主要目標としてキリストの栄光に注意を払うように、その生活が制御されなければならない、と簡潔に結論している。われわれはこの語の中に二つのことを含めるのが適当であろう。すなわち,われわれの仕事や企てはすべてキリストへの祈りによって始まること、と、キリストの栄光に役立つこと、とである。祈りから神の祝福が続き、それはわれわれに感謝の材料を提供する。また、彼がわれわれはキリストによって父に感謝しなければならないと言っていることに注意すべきである。われわれは神がわれわれに与えるすべてのよいことをキリストによって得ているからである。」(カルヴァン新約聖書註解ピリピ・コロサイ・テサロユケ書P153154新教出版社1970)と記している。

 私たちのすべての行動はすべて、祈りによって始められ、ただ、神の栄光の為になされるべきである。

 

2021/8/31(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書1:2-3 賛美 新聖歌177

 ハガイ2:1からの預言者ハガイの言葉のすぐ後に語られているこの言葉には重要なメッセージが語られている。それはまずイスラエルの民が神に立ち帰れということである。立ち帰るとは自らの命の方向性を変えて、神に向かって進んでいく方向へと戻ることである。ここで求められるのは神の前に立つ神の民として自分の心を吟味し、神の言葉から逸れる罪を悔い改めて、神中心に生きることである。

 イスラエルの歴史を通じて多くの預言者が送られた。彼らが語ったのは神に従う勧めであった。そして神に従うために知るべき神の御心は神の言葉の中に記されているのである。今の時代に神を信じて生きている私たちにも同じことが言える。クリスチャンになったから、これからはまったく悔い改めが必要のない人生を送るのではない。常に聖書の言葉に聞き、その言葉を基準として自分を吟味し、神から逸れているときには立ち帰ることが求められている。

 

2021/9/1(水) 担当 高谷清師 コロ3:18-4:1: 新賛美 新聖歌 216

 他のパウロ書簡におけると同じようにこの箇所には「教え」に続いて「勧め」が記される。その第一は妻と夫の関係の在り方についてである。「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない。」と述べている。エフェソの信徒への手紙においては妻と夫との関係を教会とキリストとの関係を用いて語っている。夫は何の見返りをも求めず、アガペーの愛をもって妻を愛し、妻はその愛に応えて夫を愛し、仕えるのであって、それは支配と隷属の関係ではない。罪の世に在って、キリスト者がこのような関係に生きるならば、世に対して神の栄光を現すことが出来るであろう。

 

2021/9/2(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書1:4-6 賛美 聖歌196

 立ち帰るように呼び掛けるゼカリヤは人々に先祖の生き方を思い起こさせる。彼らは神に従わず、実際に悪を行っていた。神に対する心の在り方だけではなく、実生活においてその行いが悪であったと言われる。確かにその先祖たちは今もう生きてはいない。神の言葉を語った預言者たちでさえも神が定められた時が来るならばこの世の生涯を終えて地上に存在しなくなる。しかし預言者を通して語られた神の言葉はすたれることがない。神の言葉の真実は時代を越えて人々を主のもとへと招き、義へと導くのである。

 だからこそ二千年以上前に書かれた聖書の言葉も今の私たちに力をもって迫る。そして私たちはこれを神の言葉として受け止め、聞き従うのである。デボーションで聖書を読むとき、通読のために聖書を読むとき、それを単なる創作文学として読むべきではない。今を生きる私たちに生きて働き、私たちの魂に語り掛ける神の言葉である。

 

2021/9/3(金) 担当 高谷清師 詩 63:5  賛美 新聖歌 343

 激しい飢え渇きの中で神に出会った詩人は「命のある限り、あなたをたたえ/手を高く上げ、御名によって祈ります。」と詠う。パウロは「しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、/「目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったことを、/神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」(?一コリ2:6-14)と述べている。

 神はわたしたちが想像もできなかった恵みの御業を御子において成し遂げ、聖霊によって私たちをその御業に与る者としてくださったのである。感謝と讃美以外に無い。

 

2021/9/4(土) 担当 高谷清師 コロ3:20-21 賛美 新聖歌 390

 続いて親子関係について教える。先ず、子供に対して「子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。」と語る。十戒において神は「あなたの父母を敬え」(出20:12)と命じておられる。そして、それには「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」(出20:12)と言う約束が伴っている。この箇所について江口武憲師は「親子の関係は夫婦の関係と違った意味に於て、人間関係の最も根本的な形態である。それは取り消すことも、変更することも出来ない永続的な関係である。子はその存在を親に負い、親は子の存在に責任を持たねばならない。夫婦の関係は少なくとも、両者の選択と決断をその根底に持っているが、親子の関係にはそれがない。それはより与えられた性格を持つ関係である。それは人間の思いを越えた創造の秩序に属するが故に、基本的に神との関わりの中でとらえられねばならない。それ故、子の親に対する服従は「主に喜ばれること」なのである。子は親から生きることの全ての経験を学び、継承してゆく。」(説教者のための聖書講解No4362日本基督教団出版局1983)と述べておられる。親にとって子は神から託された人格であり、子にとって親は神によって与えられたものである。それ故、各々は神に対する畏れをもって対すべきである。