2021/9/6-11

 2021/9/6(月) 担当 高谷清師 コロ3:20-21 賛美 新聖歌 316

 父親に対して「子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。」と教えられている。エフェソの信徒への手紙においては「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」(エフェ6:4)と教えられている。世には子を自らの所有のように扱う人がいる。しかし子は神の創造による、確たる人格を持った存在であり、親は子が自立して神の前に立つ日までその養育を委託された存在である。それ故、その養育の任は親の感情の赴くままではなく、確固たる神のみ言葉に立ち、主がしつけ諭されるように、育てることが求められている。日々祈りを共にし、御言葉と聖霊に導かれて主のみ旨の内を歩む家庭でありたい。

 

2021/9/7(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書1:7-11 賛美 新聖歌165

 1:7から6:8までにいくつかの預言者が見た幻について報告されている。第一の幻ではミルトスの林の中に立っている主の使いの報告が語られている。70年間も主の怒りのもとにあるエルサレムとユダの町々に対する神の憐れみについて問われている。安穏にしている諸国の民は、神がご自分の民に対してわずかに怒った時、その怒りに便乗して災いをもたらしたと神は言われる。当時ペルシャ帝国はバビロンを侵略して地上を支配していた。そのような平和を享受している世の力に対して、現状がどうであれ神はエルサレムを再び選ばれると語られた。

 目に見える世界情勢では異邦人の権力が圧倒的に支配している。しかし神は御心に沿わずに権力を振りかざす国々を承認されるのではなく、エルサレムを再び選ばれると述べられた。目に見える状況がいつでも必ずしもすべて主の目に肯定されることではない。

 

2021/9/8(水) 担当 高谷清師 コロ3:22-25: 新賛美 新聖歌

 パウロは「奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」と語る。今日の日本においては奴隷は存在しない。しかし、主従関係は存在する。多くの人は雇い主と雇用契約を結び、それに従って職務に従事する。しかし、イエスを信じる者は主の前に生きる者である。それ故に人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めてその職務を遂行すべきである。それによって神の栄光を現すことこそ、主の喜ばれることである。

 

2021/9/9(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書2:1-4 賛美 新聖歌339

 力のシンボルである角が諸国をあらわしている。4つの角が具体的にどこの国かということは記されていない。これがどの国を指すのかとの問いは興味をそそるものであるが、推測しても神の御心を知るという意味では核心を射たものではないだろう。ユダの苦悩には諸国民にも責任があり、神は諸国を倒すために働かれるのである。

 ハガイ書にも神ご自身が異国の力を砕くと述べられている(ハガイ2:22)。神に従う者が苦しみ、神に逆らう人々が力を持つという状況はいろいろな時に起こりうる。しかしだからと言って神がその状況をすべて良しとしておられるというわけではない。だからこそあらゆる状況において神の御心を求めて祈り、神に従う道を歩むことが大切である。

 

2021/9/10(金) 担当 高谷清師 詩 63:6  賛美 聖歌 273

 激しい飢え渇きの中で神に出会い、祈り、神との交わりに入れられた詩人は「わたしの魂は満ち足りました/乳と髄のもてなしを受けたように。わたしの唇は喜びの歌をうたい/わたしの口は賛美の声をあげます。」と詠う。人は日々の生活において空しさを覚える。その空しさを満たすために色々なイベントに参加する。参加している時は何となく満たされた気持ちになる。しかし、それが終わると以前にも増して深い空しさに襲われる。イエスは「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハ4:13-14)と教えておられる。またイエスは「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。」(ヨハ 6:55)と教えておられる。神によって造られた者を満たすものは生ける神の言以外に無い。

 

2021/9/11(土) 担当 高谷清師 コロ4:1 賛美 新聖歌 341

 パウロは主人たちに対して「奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。」と語る。エフェソの信徒への手紙においては「主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。」(エフェ6:9)と述べている。この箇所についてカルヴァンは「主人は奴隷の地位を、あたかも高所から見下している如くに、高慢に軽蔑し、自分らにはどんな掟も課せられていないと考えているようであるから、パウロは彼らを抑制し彼らの倣慢の鼻をくじいている。というのは、双方とも神の権威と支配の下にあって平等であるからである。」(カルヴァン新約聖書注解ピリピ・コロサイ・テサロニケP156新教出版社1970)と述べている。今日の日本においてはパワハラが社会問題化している。職場において上司と部下という関係はあるにしても、各々は神の前に平等であり、人格の尊厳を損なうパワハラはあってはならないことである。