2013/7/29-8/3

 

2013/7/29(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 13:22-25 賛美  新聖歌40
 この箇所はこの手紙の追伸の部分であると言われる。その中で著者は「兄弟たち、どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れてください、実際、わたしは手短に書いたのですから」と述べる。ここで私たちは、私たちが聖書に対する時の態度、あり方について教えられる。パウロは「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です(?テモ3:16)」と述べている。パウロがこの部分で言及した「聖書」はもちろん、旧約聖書であった。しかし私たちは今日、聖書正典として旧新約66巻を与えられている。この正典形成過程には様々な局面があったが、その著作から選定まで一貫して導かれたのは聖霊であり、それ故に聖書は神の言葉である。したがって私たちが聖書に対する時求められるのは「受け入れる」事である。わたしたちが一般の著作物に接する時には、「この人はこう考えておられるのだな、しかし私の考えはこうだ、自分の考え形成の参考にさせていただきます」である。しかし聖書はそれが神の言葉であるゆえ、受け入れ、信じ、信頼し、従うことが求められる。

 

2013/7/30(火)担当 ラウジー満世師 列王記上19:19-21 賛美 新聖歌156 聖歌483
 エリヤはバアルの預言者たちとのカルメル山での対決の後、失意のうちに死を願った。神は彼を荒野へ導かれ、十分な休息を与えた後に変わらぬ召しを示された。
 エリヤはその働きの大成功にもかかわらず、その後に恐れにとらわれて神に対してさえ自分の恐れと窮状を訴える。そこには力強い信仰者、神の僕としての姿は見えない。ただただ落胆し、恐れにとらわれ、逃げ出すことだけを願っている。このように訴えるエリヤに対し、神は彼が満足するまで心情を聞き続け、保護されただけではなかった。神はもう一度エリヤをご自分の前に立たせ、そしてまだ疲れているエリヤに過去を振り返ることではなく、前に向かって新たな働きに向かって前進させられた。そしてエリヤの働きを受け継ぐエリシャを召し出されたのである。
 しばしば私たちは「状態が良くなり、元気になったら神に仕えます。」と考える。しかし、時には状況が完璧ではなくても、神の召しに押し出され、御手で支えられて前進するときに新たな奉仕の力が与えられることもある。

 

2013/7/31 (水)担当 高谷清師ヘブライ人への手紙13:22-25 賛美 新聖歌427・聖歌520
 著者は「恵みがあなたがた一同と共にあるように」との祈りをもって書簡を閉じる。この祈りを結びとするのは当時のキリスト者の間で一般的であった。パウロも、彼の書簡のほとんどを、文言は多小異なるとしても、この祈りをもって閉じている。この挨拶の言葉はキリスト者以外の人々によっても用いられていたが、キリスト者にとって「恵み」と言う言葉は特別な意味をもっている。それは主イエスキリストの御業によってもたらされた罪の赦しとそれに伴う祝福、即ち神の子とされる恵みである。主も語っておられるようにキリスト者も世で苦難がある。日々、苦難や問題と戦いつつ生きている。その戦いに心を奪われて、主を見上げることを忘れてはならない。パウロは「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります(フィリ 3:8-9)」と語っている。世の煩わしさに捕らわれず、日々主を見上げその恵みに感謝しつつ歩んでいこう。

 

2013/8/1(木)担当 ラウジー満世師 列王記上20:1-34 賛美 新聖歌248 聖歌472
 20章では場面が一転してイスラエルとアラムの間に戦いが起った。驚くべきことに、主は預言者を通してアハブ王の手に敵を渡すといわれた。これは主こそ神であることをアハブが知るようになるためであった(20:13)。神はあらゆることを用いて、あらゆる人に対してご自分こそが真の神であることを示そうとされ、またそうなさることの出来る神である。主の言葉の通り、イスラエルは戦いにおいてアラム軍を圧倒し、大損害を与えた。これに対して、イスラエルだけではなくアラム自身がイスラエルの神は山の神であるとその力を認めている。しかしなおかたくななアラムはイスラエルの神は平地では力がないと主張しようとするが、神はこれに対してもまたご自身が真の神であると示そうと言われる(20:28)。
 人はしばしばあらゆる理屈をこじつけて神が真の神であることを否定しようとする。しかし、神はご自分の御心にしたがって、ご自身が真の神であることをいつでも示すことがおできになる。

 

13/8/2(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 8:6 賛美 新聖歌225・聖歌447
 先日をもってヘブライ人への手紙を読み終えた。一年間くらいと思って読み始めたが、終えてみると一年七ヶ月かかっていた。もっとも、この間の何回かはヘブライ人への手紙を離れて時期の主題を取り上げたが・・・・・。この書簡で著者が一貫して取り上げてきたのは旧約に対する新約の優位性、律法に対する恵みの素晴らしさである。旧約のもとにおいて人々は一生懸命に律法を守り、自分の義を得ようとして失敗した。これに対して御子は私たちの罪を負って十字架に架かり、血を流し、命を捨てることによって私たちの贖いを成し遂げ、律法を成就してくださった。わたしたちは御子を救い主と信じる信仰によって義とされるのである。わたしたちの肉はしばしば自分の義を求め、主張しょうとする。しかし私たちの真の義はキリストの内にあり、信仰によって受けるものである。どんな時にも信仰によって生きよう。

 

2013/7/27(土)担当 高谷由紀子師 マルコ2:13-14 賛美 新聖歌177・聖歌409
 レビは徴税人であった。当時ユダヤはローマの支配下にあった。したがって徴税人は異邦人ローマのために選民イスラエル人から税を徴収する結果となり、同胞の反感を買った。加えて徴税人の中にはローマ政府から課された以上の金額を徴収して私腹を肥やす者もあり、同胞の憎しみと反感を買っていた。それ故、レビの生活は裕福ではあったが、孤独でさびしいものであった。そんな時、通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけられた主は、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
 主は徴税人や罪人、即ち世から軽蔑され、捨てられた人々を招き、救われるお方です。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである(ルカ 19:10)」と言われているとおりです。