2013/8/5-10

 

2013/8/5(月)担当 高谷清師 コリント?1:1-3 賛美 新聖歌38・聖歌195
 今週からはコリントの信徒への手紙?を読み進め、主の御心を知り、御霊の導きと助けを得て御旨を歩んでいきたい。当時コリントはローマ世界の中でも繁栄を極めた都市のひとつであり、それに伴い、精神的道徳的に頽廃した都市であった。コリントにある神の教会はパウロの宣教によって誕生した教会であった。それから4年後、エフェソに滞在していたパウロは、クロエの家の人達からもたらされた情報と教会からの手紙によって、教会の状況と問題点、必要を知り、この書簡を送ったのである。教理ではなく、勿論、正しい教理に立ちつつ、日々の教会生活に起こる問題を扱った本書簡は世にあってクリスチャン生活を送る私たちに大きな助けと力を与えるのである。とりわけ、経済的繁栄の中にあって頽廃の進む今日の日本のキリスト者に与える示唆は大きい。
 書簡の冒頭においてパウロは自らを「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ」と紹介する。パウロは神の御心によって召されたキリスト・イエスの使徒であった。従ってパウロが語るのは自らの学識・願望ではない。彼が行動するのは彼の欲望・野望の実現のためではない。神のみ旨を語り行うのである。
 今日、教職者の間で○○先生の教会、私の教会との会話が交わされることに当惑を覚えざるを得ない。そのような人々に限って神の教会を私物化するのである。しかし教職者は神によって召され、神の教会に仕える者である。教会はキリストの体であり教職者は召されて教会に仕える者であることを認識し聖徒は吟味すべきである。

 

 
2013/8/6(火)担当 ラウジー満世師 列王記上20:35-43 賛美384 新聖歌 聖歌296
 20章ではアハブは神に導かれてアラムのベン・ハダドとの戦いを戦っている。19章でのアハブの姿とはまったく違った印象を受ける。私達がこの箇所を読むとき、アハブは神に従順な王に見える。神がご自身を示すためにこの戦いでイスラエルを勝利させられた。明らかにこれは神の戦いである。そしてイスラエルの歴史において神の聖なる戦をするときには、敵を滅ぼしつくすことが求められる。イスラエルはこれを通して神に従順であることが求められた。敵を滅ぼしつくすことの是非についてはさまざまな思いがあり、非常に難しい問題であり、今日ここで扱いきることは出来ない。ここでは驚くべき方法でこのアハブ王に対してその不従順のゆえに神が厳しい裁きを下されることが明言されている。神の定めに反してアハブがベン・ハダドを逃がしたがゆえにアハブ王自身の命が取られるというのである。
 神への従順は部分的なものであってはならない。神に従うというとき、私たちは徹底的に主に仕えることが求められるのである。

 

 
2013/8/7 (水) 担当 高谷清師 コリント?1:1-3 賛美 新聖歌355・聖歌588
 続いてパウロはこの手紙の宛先として「コリントにある神の教会へ」と語る。当時のコリント教会には分裂分派があり(1:11−12)不義がはびこり(6:8−10)近親相姦者がおり(5:1)主の晩餐について乱れがあった(11:20−22)。まさに「これでもキリストの教会?」と言いたいような状況である。カルヴァンは『パウロは、なぜ神よりもむしろサタンが支配しているとでも思われる程悪徳の充満したこの人間の集団を「神の教会」と呼ぶのだろうか」(カルヴァン新約聖書注解?コリント前書P21)と述べている。しかしそれに続いてカルヴァンは「この章句こそ、ぜひ銘記するに足るものである。わたしたちはどんな皺も、汚点も持たぬ教会をもとめてはならないからであり、また、万事が自分の望みどおりでないからといって、信徒の集りをさっそくないがしろにしたり、教会という名を剥ぎ取ってしまったりしてはならないからである。完全なきよらかさが見られないかぎり、そこには教会は全然存在しないと考えるのは危険な誘惑であろう。(カルヴァン新約聖書注解?コリント前書P21〜22)」と述べる。コリントの教会の状態を見てひどいと感じる私たちも、自らに目を向ける時、状況は五十歩百歩であることを発見して愕然とするのである。日々主に赦しを請いつつ、一足一足主のみ姿を目指して歩もう。
 

 

2013/8/8(木)担当 ラウジー満世師 列王記上20:35-43 賛美 新聖歌385・聖歌298
 神はアハブ王が敵を滅ぼしつくすという神の命令に徹底的に従いきれなかったためにアハブに対して厳しい裁きが下ることを宣言された。これを聞いたときのアハブ王の態度はどうだっただろうか。神の言葉に対して彼は自らの罪を認め、へりくだって悔い改めたわけではなかった。逆に「機嫌を損ね、腹を立てて」帰っていった(20:43)。神から直接警告を受けているのになぜ罪に気付き、悔い改めることが出来ないのかと不思議に感じる。しかし、まさにこれが人間の姿である。私たちにとってもアハブ王の姿は他人事ではないかもしれない。日ごろ心を込めて神に従っていてもいつの間にか罪に陥ったり、失敗するのが私たちである。そんなときに神は厳しい言葉をもって私達に警告を与えてくださることもあるだろう。そのときにどう応答するかが重要である。
 日々神の前に出よう。御言葉を通し、祈りを通して神の導きを聞こう。そして心を開き、常にへりくだった心で主とともに歩もう。
 

 

13/8/9(金) 担当高谷清師 コリント?1:1-3  賛美 主をほめよ79
 パウロはこの手紙の宛先として「コリントにある神の教会へ」と記した後、「すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」と語る。このことについてモルガンは「この手紙が一般的に適用されることを記憶せよ。この手紙を読むときに、いまは滅んでしまって廃墟と化し、すべてが消えうせてしまった遠い昔の一つの都市に宛てられているというばかりでなく、そこの一つの教会に、そしてわたしたちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人々にも宛てられていることを、考えよ。この手紙はわれわれへの手紙なのである。(G.C.モルガン コリント人への手紙P10)」と述べている。実にこの手紙は今生きる私たち自身に宛てられているのである。そしてキリストは召された者全ての主である。日々主をほめたたえ、その御言葉に聞き従おう。
 

 

2013/7/27(土)担当 高谷由紀子師 ヨハネ16:33 賛美 新聖歌459・聖歌516
 主は十字架におつきになる前に、世に残される弟子たちのために訣別の説教をされました。弟子たちがこの世にあって多くの苦しみ、困難、迫害に見舞われることを思って「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と語り、勝利を宣言されました。主が「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである(ヨハ 15: 19)」と語られたように、キリスト者は世から選び出されて神に属するものとされた人々である。それ故、世は、主を迫害したようにキリスト者を迫害する。しかし主は世に勝利された。その勝利は私たちのものである。