2013/8/12-17

 

2013/8/12(月) 担当高谷清師 ?コリ1:1-3 賛美 新聖歌392・聖歌578
 続いてパウロは「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と記す。この挨拶は典型的なものであり、新約聖書のほぼすべての手紙に見られる。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである(ヨハ 1:17)」と記されているように、「恵み」とはキリストによって顕された神の無償のプレゼントである。「平和」とは、単に争いの無い状態以上のものである。それは祝福に満ちた充実した状態を指しているのである。これらは父である神と主イエス・キリストに由来するものであり、キリストをとおしてのみ、与えられるのである。主は言われる「わたしの愛にとどまりなさい(ヨハ 15:9b)」と。今日も救い主イエスの内を歩もう。
 

 

2013/8/13(火)担当 ラウジー満世師 列王記上21:1-16 賛美 新聖歌366 聖歌331
 アハブ王とイゼベルのイズレエル人ナボトの畑をめぐる恐ろしい罪が記されている。イスラエルにとって土地は神から与えられた嗣業であり、決して売買されるべきものではなかった。ナボトはそれゆえに王アハブの申し出を拒否した。しかしアハブ王は妻イゼベルの企てにより、最終的にこの土地を手中にした。
 イゼベルはアハブに対し、今イスラエルを治め、イスラエルの権力を掌握しているのはアハブだからナボトの土地を入手できると言う。ここには大きな間違いがある。イスラエルに王制が導入されるとき大きな問題があった。それは真にイスラエルを治めるのは誰かということであった。周辺諸国の王とは異なり、イスラエルにおいて王は神からその民の支配を地上において委ねられたものであり、王も神の権威の下に服する者であった。ゆえに、アハブはあたかも自分がイスラエルの最高権力者のように振舞うことは許されなかったのである。
 神の民を委ねられた指導者は自らも神の権威に服す者であり、神の御旨にしたがって正しく委ねられた民を治めるべきことを常に覚え、主に仕えなければならない。今日の教会においても、決して忘れられてはならない。
 

 

2013/8/14 (水) 担当 高谷清師 ?コリ1:4-9 賛美 新聖歌361・聖歌456
 挨拶の言葉を語り終わったパウロは、神への感謝を述べる。コリントの教会が受けた神からの恵みに対しての神への感謝である。それは彼らが、キリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされていたからである。先述したように、当時のコリント教会には分裂分派があり(1:11−12)不義がはびこり(6:8−10)近親相姦者がおり(5:1)主の晩餐について乱れがあった(11:20−22)のであって、キリスト教会の面汚しとなっていたような状態であった。しかしパウロは「いつもわたしの神に感謝してい」たのである。
主は「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである(ヨハ 10:28-30)」と語っておられる。
 神の祝福を一身に受けたダビデは姦淫、殺人偽証の罪を犯した。主イエスの愛の中に生かされていたペトロも主の面前で三度も御名を拒んだ。パウロもまた「わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者(?テモ1:13a)」であった。しかし主の憐れみは尽きることなく、罪を示し、悔い改めに導き、救いの中に守り、御自身の奉仕に任じ、用いられたのである。これらのことを思い起こしながらパウロはコリント人の眼前の状態ではなく、神の御言葉に立って、感謝をささげているのである。わたしたちは軽々に裁くことはすまい。神の約束に立って感謝をささげる者でありたい。
 

 

2013/8/15(木)担当 ラウジー満世師 列王記上21:17-29 賛美 新聖歌357 聖歌450
 アハブは恐るべき罪を犯した。25-26節に明記されている通りである。誰にそそのかされたにせよ、アハブ自身が罪を犯し、神にそむいたのである。そしてエリヤを通して神はアハブに対して裁きを語られた。しかし、このエリヤとアハブとの対話の中に、神の憐れみもまた見ることが出来る。
 アハブのようなひどい罪を犯した者は赦されないと感情的に私たちは判断したくなる。しかし、驚くべきことに、「アハブのように、主の目に悪とされることに身をゆだねた者はいなかった。」(25節)と断言されたその後で、アハブがエリヤを通して語られた裁きを聞いて悔い改めたことが記されている。この真の悔い改めをごらんになった神は、そのへりくだりを受け入れられ、アハブの存命中には裁きを下さないと言われた。
 人は時として誰かの罪を容易に赦すことができないことがある。たとえ罪を犯した人が心から悔い改めていたとしても。しかし、神は心からへりくだる者を受け入れてくださる。
 

 

13/8/16(金) 担当高谷清師 ?コリ1:4-9  賛美 新聖歌201・聖歌608
 パウロは前述の信仰に立ってコリント教会の現状をみつめ「その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます」と述べる。主の僕として福音を伝え、多くの人の病を癒し、多くの人を悪霊から解放するために用いられたパウロであったが、その身に一つのとげをもっていた。それについて離れ去らせてくださるように、三度主に願ったことに対する主の答えは「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ(?コリ12:9b)」と言うものであった。
 わたしたちは主から多くの恵みと賜物を与えられている。しかし、全ての恵みと賜物を与えられているわけではない。パウロは「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい(?コリ12:31b)」と勧めている。主イエスも「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる(マタ 7:7-8)」と語っておられる。
 より良き信仰生活のために、福音宣教のために恵みと賜物を求めるとともに、今与えられている恵みと賜物の十全性を認め、感謝し、それを生かして主の栄光を表す事も大切である。
 

 

2013/8/17(土)担当 高谷由紀子師 マタイによる福音書18:21-22 賛美 新聖歌236・聖歌426
 「人を赦しなさい」とは昔から教え諭されてきたことです。しかし、赦すべきだと分かってはいても簡単に赦せないのが人間の常です。
 ペトロは主の兄弟が自分に罪を犯したなら、何度赦すべきか尋ねました。普通は一度や二度なら赦せても、度重なれば我慢にも限度があります。ペトロは七度赦せば完全であろうと思いましたが、主は七の七十倍までも赦すように言われた。これは何度でも無限に赦しなさいという意味です。
 クリスチャンである私たちは自分自身で贖うことのできない罪を、主の十字架によって赦されたのです。この恵みを受けた私たちは、主にあって人々を赦すことができるのです。