≪デボーションの友≫2023/1/2-7

2023/1/2(月) 担当 高谷清師 ガラ5:1 聖歌(総)476  聖歌 463

 パウロはこれまで述べてきた福音の総括として「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」と語る。「自由」という言葉は人間について快い響きをもたらすが、人各々においてその意味は様々である。ルターは世界に広く行き渡っている「肉の自由」について語っている。

「この自由をもっている者は、神にも律法にも従わず、自分の欲することを行なっている。この自由を今日一般の人々は追い求めており、狂信的な霊の持ち主たちもそうである。この人々は、自分の考えや行動によって解放されようと思い、自分が正しいと考えてこれを教え、罰せられずにこれを行なっている。これは悪魔的な自由である。これによって悪魔は不信仰な人々を解放して、神と人とに対し罪を犯させようとする。これは最も広くひろがっており、全世界もこれのみを求め、これを追っている」(ルター著作集第2集第12巻(ガラテヤ大部解・下日本ルーテル神学大学ルター研究所編P250聖文舎)

と述べている。今日の日本は世界でもまれに見るほどの自由を享受している。然しそれに伴う規範、自由には責任が伴うと言うことがないがしろにされているのではないだろうか。人は何の規範もなく生き得る存在ではない。

2023/1/3(火)担当 ラウジー満世師 創世記25:19-26 賛美 聖歌(総)511 聖歌493

 アブラハムが葬られた後も神がアブラハムを選ばれ、彼に与えられた約束と祝福はその子イサクを通して将来の世代へと引き継がれていく。イサクはその妻リベカとの間に家庭を築いていく。この夫婦もまたアブラハムと同様に不妊という問題に直面した。神の選びと祝福が次の世代に受け継がれるかという危機に際してここでも父であり族長であるイサクが神に祈る。神は彼の祈りを聞き入れて下さり、子を与えて下さった。

 イサクの祈りの内に次の世代の命が与えられた。命は神の御手の中にあり、新しい命を与えるか否かということは神の御心によるのである。今の時代には人間の手で命が作り出されるように考えることがある。しかし命は神の御心に従って与えられるものであることを覚えなければならない。このことを受け入れるときに与えられた命を人が喜び、誠実に生きることが出来る。決して明るい希望が満ち満ちた状況に始まった2023年とは容易には言えない時代である。しかし今の時代に神によって命を与えられていることを感謝し、主が私たちを通してなしてくださることに期待しよう。

2023/1/4(水) 担当 高谷清師 ガラ5:1 聖歌(総)483  聖歌 460

 続いてルターはこの箇所に語られている「自由」について述べる。

「それは、キリストがわれわれを解放してくださった自由である。それも、何らかの人間の奴隷状態や暴君の権カからではなくて、神の永遠の怒りからの解放である。それはどこで起こるのか。良心においてである。ここにわれわれの自由はとどまって、もはや離れていくことはない。なぜなら、キリストがわれわれを自由にしてくださったのは、政治的にでも、肉的にでもなくて、神学的、すなわち霊的にである。つまり、われわれの良心が自由とされ、喜びに満たされて、来たるべき怒りを恐れないようにされるのである。これこそ真の、また、測り知ることのできない自由である。ほかの種類の自由(市民的な自由とか肉的な自由とか)が、この自由の偉大きと栄光とに比べられるならば、それらの自由はほんの一しずくにもあたらないであろう。神がいまも将来も怒ることなく、キリストのゆえに永遠に恵みと憐れみの父であられるということをしっかりと断言できるのは、なんとたいしたことであることか、とだれが語ることができようか。われわれを支え、守り、助けて、身体的にすら解放し、こうしてわれわれの身体が「朽ちるもの、不名誉で弱いものとして播かれて、朽ちないもの、栄光と力あるものとして甦る」〔Ⅱコリ15:42〕ようにしてくださったこの最初の栄光をもつことこそ、偉大で、把握することもできない自由である。われわれが神の怒りから永遠に自由とされている自由は筆紙につくしがたく、天と地とすべての被造物よりも大いなるものである。」(ルター著作集第2集第12巻(ガラテヤ大部解・下日本ルーテル神学大学ルター研究所編P25聖文舎)

と述べている。フィリ書においてパウロは「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(フィリ3:8-9)と述べている。キリストの贖いの御業によって私たちに与えられた自由、御救いの尊さを日々感謝しつつ歩もう。

2023/1/5(木)担当 ラウジー満世師 創世記25:19-26 賛美 聖歌(総)569  聖歌544

 神がイサクの祈りを聞いて与えられた子は双子であった。この子たちに対しても主は確かな将来を語っておられる。それぞれが独立した民となる。しかしその民の間には争いがあることがこの時点ですでに語られている。当時の習わしに反して兄が弟に仕えることもまた神は二人の誕生の時から定めておられる。しかも兄には弟に仕えるという決して喜ばしいものではない未来が告げられる。さらにその理由すら聞かされない。今の時代にも人の力では変えられない不公平、不条理だと感じる状況の中で生きる人々もいる。納得できる説明も得られない中で生きることは決して容易ではない。しかしその状況の背後にすらも神がいて下さることを知ることが出来るならば、置かれた場所でしっかりと生きる力になる。二人は争いの中に歩むことになるが、それでもそれぞれを神は独立した民として導かれるのである。

 どんな状況においても神の守りが与えられることを覚えよう。

2023/1/6(金) 担当 高谷清師 詩 73:1-28 賛美 聖歌(総)659 聖歌 614

 先週で72篇を読み終えて今週からは73を読んでいく。この詩篇について鍋谷尭次師は「神の聖所に入るまで」という見出しを付し、月本昭男師は「あなたのみもとにあるならば」という見出しを付しておられる。またロイドジョンズは「試練の中で成長する信仰」という見出しを、A. ヴァイザー「あなたのみをわがものに」という見出しを付している。また73篇から83篇までは「アサフの詩。」という表題が付されている。アサフについて月本昭男師は「ダピデが任命した神殿付楽隊の長のひとりと伝えられ、その子孫は第二神殿で演奏や讃美を受け持つ一族をなした」(『詩編の思想と信仰ⅡP3158新教出版社出版社2006)と記しておられる。これらのことからこの詩の詠者は神殿における礼拝において演奏や讃美を受け持つ敬虔な信仰者であったと思われる。この信仰者も「世」を見た時躓きを覚えた。「神に逆らう者の安泰を見て/わたしは驕る者をうらやんだ。」のである。これはいつの時代にも敬虔な信仰者が遭遇する躓きの石である。しかし、信仰者は神体験の中で真理に導かれ、平安を得るのである。いつの世にも存在する信仰者の試練と試練に勝利する道をこの詩篇の中から学んでいきたい。

2023/1/7(土) 担当 高谷清師 ルカ11:5-10 賛美 聖歌(総)231 聖歌 255

 イエスはある人の所に真夜中に旅行中の友達が到着したがその人の所には出すものが何もなかったので、友人の所に行って「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。」と願った人の譬えを話された。「パンを三つ貸してください」と乞われた友人は「面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。」と答えた。これについてイエスは「その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」と語り、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」と語り、忍耐強く、熱心に祈るべきことを教えられた。祈りには忍耐と熱心が求められる。