≪デボーションの友≫2022/12/26-31

2022/12/26(月) 担当 高谷清師 ガラ4:16-20 聖歌(総)232  聖歌 256

 パウロは「できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。」と語る。パウロがガラテヤに福音を伝えた時のガラテヤの人々についてパウロは「そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。」(ガラ4:14-15)と語る。パウロの伝えた福音を信じ、救われたガラテヤ人たちは大きな喜びに満たされていたのである。しかしパウロが去った後、日を経ずして入り込んだユダヤの律法主義者たちの教説に惑わされて信仰の混乱を来たし、再び奴隷のくびきに繋がれようとしているガラテヤ人にパウロは困惑している。

 主の僕が心血注いで導いてきた聖徒が、少しの間隙をついて入り込んだサタンに心奪われて真理に敵対する事案はしばしば起こる。しかし主の僕は投げ出すことはない。祈り続け対話の道を探し続けるのである。

2022/12/27(火)担当 ラウジー満世師 創世記24:62-67 賛美 聖歌(総)520聖歌519

 家族の祝福を受けて旅立ったリベカはついにイサクの居るネゲブ地方に到着した。イサクと初めて対面する時、リベカは当時の習慣に則してベールをかぶり、敬意を表して対面した。二人の出会いはこのリベカの行動だけで表されるが、同時にアブラハムの僕の任務を負った旅についての詳細のすべてがイサクに報告されたことが伝えられている。事が万事順調に進んだのは背後に神の導きがあったゆえであった。この結婚が神の導きの中で、神の御心が成就した。神への感謝と賛美によって始まる二人の歩みにはもちろんお互いを愛するという気持ちも与えられる。

 神に従う、御心を行うと言うと、私たちはどこか自分の感情を押し殺して、自由をあきらめて、悲壮な決断をして従うというイメージを持つかもしれない。しかし、神は人々が神の備えられた道を歩むときには喜びをも与えて下さる。神に従う道は苦行ではなく、喜びの道である。

2022/12/28(水) 担当 高谷清師 ガラ4:16-20 聖歌(総)634  聖歌 596

 「できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。」と語ったパウロは律法と福音についてハガルの子イシュマエルとサラの子・イサクを例として説き明かす。神はアブラハムとサラに対して子供を授けることを約束された。その時サラは既に妊娠・出産の可能な年齢を過ぎていた。しかしアブラハムとサラは主の約束を信じて待ち望んだが、待ち望み切れなくなって女奴隷ハガルによって子を得た。その後、主はご自身の約束を成就され、アブラハムとサラは子を授かった。子を授かったサラは女奴隷とその子の追放を要求し、主はあの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。」と語り、祝福を嗣ぐのは約束の子であることを明らかにされた。ハガルによって生まれた子は肉による子であり、サラによって生まれた子は約束による子である。私たちに祝福を、救いを得させてくださるのは約束によって遣わされた御子イエスである。このお方だけが唯一の救い主である。

2022/12/29(木)担当 ラウジー満世師 創世記25:1-18 賛美 聖歌(総)481聖歌468

 アブラハムが最初に神に呼び出された時に系図が示されていたように、アブラハムの生涯の終わりにも系図が示されている。アブラハムは各地を転々としながら家畜の世話をする遊牧生活を送ったが、その生活の中で神はこの一族を祝福された。ここにはイシュマエルの子孫たちの系図も含まれている。アブラハムの跡継ぎとはならなかったこれらの民族もまた神が与えられた祝福である。さらにアブラハムは死んだ後にすでに購入していた場所に妻サラと共に埋葬された。アブラハムの生涯が主に喜ばれるものであったからである。もちろんアブラハムにも妻サラを危険に晒すなどの様々な失敗があり、神に喜ばれない選択をしたこともあった。しかし、その時に神の前にひざまずき、間違いを認め、悔い改めて神と共に歩んだ結果、神に喜ばれる歩みを全うできた。

 失敗のない完璧な歩みではなく、神の御心を求めつつも逸れてしまうことがあっても神に立ち帰る歩みを私たちが求めていくことによって主に喜ばれる生涯を完走できる。

2022/12/30(金) 担当 高谷清師 詩 72:18-19 賛美 聖歌(総)33 聖歌 91

 この部分はこの詩の結びであるとともに詩編第二巻の結びでもある。この箇所について月本昭男師は

「本詩に詠われた王の支配が神の公正と正義に基づくとすれば、それはひとえにイスラエルの神ヤハウェの「不思議なみ業」である。それゆえ、究極的にはヤハウェの「名」がたたえられ、ヤハウェの栄光が全地に満ちるであろう。末尾の頌栄は、こうして、王によって実現される理想世界の到来をすべて神の業に帰す。」『詩編の思想と信仰Ⅲ』P303新教出版社2011)

と記しておられる。

 使徒言行録4章は初代教会の美しい姿を描き出している。キリスト者は全知全能、善にして愛なる神に選び出され、信仰によって神に結ばれているものである。パウロは「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリ  6:20)・「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(Ⅰコリ  10:31)と命じている。常に神の栄光を顕す者となろう。

2022/12/31(土) 担当 高谷清師 ルカ 17:11-19 賛美 新聖歌 18

 イエスがエルサレムへ上られる途中、サマリアとガリラヤの間のある村を通られた時、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスが彼らに「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われ、彼らがその言葉に従って祭司たちの所に行く途中、彼らは自分が清くされたことを知った。彼らの中の一人でサマリヤ人であった者が大声で神を賛美しながら戻って来てイエスの足もとにひれ伏して感謝した。これを見てイエスは「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」と言われた。それから、イエスはその人に「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われた。

 私たちの祈りは祈願ばかりが多くて感謝と讃美のなんと少ないことであろうか。受けた恵みに対して常に感謝し、御名を賛美しょう。それは神に喜ばれることである。