2013/2/4-9

 

2013/2/4(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 31 賛美 聖歌514
 主に導かれ、イスラエルを率いて約束の地に入ったヨシュアは、行く手にたちはだかる城壁を備えた堅固な町エリコを探るために斥候を送った。斥候たちは遊女ラハブの家に入り、そこに泊った。エリコの王は追っ手を遣わしたが、ラハブは斥候たちを隠し、追っ手から守った。ラハブは神がイスラエルに約束されたことは確実なことと信じており、イスラエルがエリコに入る日、自分と一族の命を救うよう求めたのである。それによってエリコは滅ぼされたが、ラハブとその一族は死を免れた。彼女の信仰が彼女と一族を救ったのである。
 

 

2013/2/5(火)担当 高谷満世師 サムエル記下23:8-17 賛美 聖歌478 
 23章の後半にはダビデに仕えた兵士達の中の勇士たちの名が列挙されている。30人の頭のうちの3人について、彼らの勇敢な行動が記録されている。戦いの真っ只中にあってダビデがおそらく何気なく、井戸の水が飲みたいともらしたであろう一言を聞いて、三人の者は主人のために、敵軍を恐れることなく、その陣営を突っ切って水を持ち帰った。ダビデは彼らが自分に忠実に仕え、自分を愛し、尊敬して、命の危険をも顧みずに王のために水を汲んできたことを喜んだ。しかし、同時に彼らの命がけの忠誠心を見たときに、それを当然自分が受けるべきものであるとは考えなかった。ダビデはその水を受け取ったときに、主に祈り、その三人の勇者たちの命をかけた水を自分が飲むのではなく、主に謙遜と恐れをもって捧げた。
 この出来事の中に、ダビデの謙遜と人々への愛を見る。神に用いられる器は神の前での自分の姿を知っている。それゆえへりくだることが出来る。また神から愛を受けていることを知っているがゆえに、目下の者に対しても愛と尊敬をもって接することが出来る。
 

 

013/2/6 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 31 賛美 聖歌571
 前節まで著者はイスラエルの宗教史にその名を刻み、民から尊敬を集める人々の信仰について語って来た。しかしここに取り上げたラハブは異邦人女性、それも遊女である。このことは神に受け入れられるのは民族、社会的立場の上下、身分の貴賤貧富等によらず、ただ信仰によることをあらわしている。これは今日、私たちは、自分が教職だから、教会役員だから、教会やキリスト教団体において指導的立場にあるから、神に受け入れられると考えてはならないことをあらわしている。主は「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。(ルカ 18: 11)」と祈るファリサイ人と、「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』(ルカ 18: 13)」と祈る徴税人について、「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ 18: 14)」と教えておられる。主に受け入れられるのは、へりくだって唯信仰によって神の前に近づく人である。
 

 

2013/1/31(木)担当 高谷満世師 サムエル記下23:18-38 賛美 聖歌495
 引き続きダビデに仕えた勇士達の名が記されている。神に選ばれ、祝福され、王国を確立したダビデは、決して一人でその働きを成し遂げたのではなかった。ダビデの周りには優れた兵士が与えられ、共に戦った。もちろんこれだけの勇士がダビデに仕えたのは、ダビデ自身が神に従う、素晴らしい人であったからであろう。この兵士達のリストがそれを物語っている。しかし、興味深いことに、この名簿はヘト人ウリヤの名前をもって閉じられている。ウリヤの名が最後におかれることによって、これほど多くの勇士達が仕えたダビデ王を理想化するのを阻んでいる。
 確かにダビデは優れた器であった。王としての才覚があった。しかし、ダビデも完璧な人ではなかった。神の前に罪を犯したのである。そしてその罪を認め、悔い改め、主に赦されて用いられた器であった。
 私達の周りに素晴らしい働きをして主に用いられている人々がたくさん居られる。その人々の謙遜な姿勢を見て主は用いておられる。私たちもその信仰から学びたい。それと同時に、用いられる器を理想化、神格化することがないように、いつも主に目を向けよう。
 

 

2013/2/8(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 11:32-34  賛美 聖歌456
 ギデオンについては士師6:11−8:35に詳しく記されている。ギデオンの時代、「イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行った。主は彼らを七年間、ミディアン人の手に渡された(士 6:1)」と記されている。このミディアン人の手からご自分の民を解放するために主に召され、立てられたのがギデオンであった。ギデオンが主に『「わたしの主よ、お願いします。しかし、どうすればイスラエルを救うことができましょう。わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。」(士 6:15)』と言っているように、彼は勇者ではなかった。しかし主は『「わたしがあなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる。」(士 6:16)』と語られ、ギデオンはその御言葉を信仰によって受け止め、立ちあがった。そして信仰に立ち、主の言葉に導かれつつ進み、勝利を収めた。わたしたちが困難に遭遇する時、御前にあって祈り、主の御言葉を与えられたならしっかりと信仰に立って進もう。勝利はあなたのものである。しかし、今日、主の明確な御言葉を得ないまま「信仰だ」と言って浮足だつものがあるが、それは確固たる基盤の上に立つ信仰ではない。十分な確信が与えられるまでは御前にひざまづき、留まるべきであることを忘れてはならない。
 

 

2013/2/9(土)高谷由紀子師 マルコによる福音書1:14-15 賛美 聖歌520

 シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネはイエスに召され、弟子として仕えていた。主はシモンとアンデレの家に行かれた。「シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした」と記されている。この記事を読む時、主に従う者に対して主はあわれみと恵みをもって導いてくださることが分かります。パウロが「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使 16: 31)と言っている言葉の確かなことが分かります。