2017/12/11-16
- 2017.12.16
- ディボーションの友
2017/12/11(月) 担当 高谷清師 ヨハネ ヨハ 6: 41-51 賛美 聖歌 196
イエス関してつぶやく人々に対しイエスは「つぶやき合うのはやめなさい。」と語られる。つぶやきはイエスを肉においてのみ知るところから生じた。船本弘毅師は「ユダヤ人たちのつぶやきは、イエスの人間的側面を問題にするところから生じた。つぶやきはしばしば人が人を問題にする時に生じて来る。それはまさに思いわずらいに他ならない。われわれは、互いに論じ合い、語り合い、つぶやき合うことによって信仰を求めようとする。しかし信仰は、知識を豊かにし、話し合うことによって得られるものではない。イエスはつぶやきの中に人間の不信仰を見ているのである。」(説教者のための聖書講解No29P21―22日本基督教団出版局1979)と述べておられる。パウロは「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ロマ 10:17)と述べている。人間の言葉、教えではなく、神の言葉に立とう。
2017/12/12(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書16:16-18 賛美 新聖歌368
詩編139篇では神がダビデのすべてを見て知っておられることが記されている。この詩の中では神に知られていることが喜ばしいことであり、感謝をもって語られ、最後にもっと自分自身を知ってくださいと神に求めている。しかしエレミヤ書のこの箇所では、神にすべてを見られ、知られていることが民にとっては恐ろしいことであった。神にすべてを見られているということは、民の悪が神の目には隠し通せないということであり、そこには裁きが伴う。本来神の民であったイスラエルにとって神に知られていることは安心と喜びであったはずだが、彼が罪を犯すとき、それは喜びから恐怖へと変わる。神と共に歩んでいると言いつつも、神の御心に反して罪深い行いをするとき、神の臨在が裁きをもたらすがゆえに恐ろしいものとなり、そこから逃げまどわなければならないものとなる。
私たちは今日神に見られており、すべてを神に知られていることを喜んでいるだろうか。もしそれを恐れているならば、その原因が私たちのうちにあるかないかを見極め、主の前に告白し、赦しを得よう。
2017/12/13(水) 担当 高谷清師 ヨハネ6: 41-51 賛美 聖歌 236
イエスは「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」と語られる。船本弘毅師は「「引き寄せる」という語は重い物を力一杯ひっぱる時に用いられる語である。」と述べ、更に「父が引きよせてくださらない限り、主の許に来ることはできない、とヨハネが語る時、それは何よりも神の絶大な恵みと導きと選びを告白しているのである。そこには人間が何かをするとか、人間の功績の入り込む余地は全くない。神人の共働ではなく、ただ神の恵みによってと告白する他ないのである。しかしそのことは、人間の意志に反してとか、無理やりに力ずくで引きずりこむことではない。パウロが「しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである」〈第一コリント15:10〉と言いあらわした緊張関係があるのである。信仰は与えられ、受けるものでありつつ、主体的決断を要請する。」((説教者のための聖書講解No29P21日本基督教団出版局1979))と述べておられる。信仰は神から与えられた恵みに対して私たちが主体的に応答することによって形成されるのである。語られた言葉に応える歩みをしょう。
2017/12/14(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書16:19-21 賛美 新聖歌343
人々は神を侮る。神を信じる人たちが苦難の中で神に従順に従うことができない姿を見て、神を信じない人々が神を冒涜するようなことがあるかも知れない。残念ながら、人びとの生き方を通して神の名が侮られ、汚されるということが起こるのが現実である。しかしそのような時にも神は力強い業をもってご自身が真の創造者であり、いかなる人によっても侮られるようなお方ではないことを示される。
神はご自身でその栄光を示すことがおできになる方である。人は悪によって神の御名を侮らせるようなことを行い、神の名を汚すかもしれないが、真に力ある方はこのような人間の罪深い行いによって無力にされる方ではない。変わりなく力をもって治め、導く神がおられることを覚え、感謝と怖れをもって歩もう。
2017/12/15(金) 担当 高谷清師 詩編35: 27 賛美 新聖歌 282
ダビデは「わたしが正しいとされることを望む人々が/喜び歌い、喜び祝い/絶えることなく唱えますように」と祈る。よこしまな動機によってダビデを悪人とし、命をつけねらう権力者サウルの不正を認識しつつも、大多数の人々は自らの保身と栄達のためにサウルに同調した。その中にあっても少数ではあったが、サウルに同調せず、神の義に生きようとする人々―わたしが正しいとされることを望む人々―があった。その人々についてダビデは「喜び歌い、喜び祝い/絶えることなく唱えますように/『主をあがめよ/御自分の僕の平和を望む方を』」と祈っている。自らの権益に執着して主イエスを十字架につけた人々は、自らの最終的勝利を確信し、喜んだ。主イエスを信じる人々は悲嘆の淵に落とされた。しかし父なる神は御子を復活させ、最終的勝利をとられ、主イエスを信じる人々は永遠の喜びに満たされた。いかなる時にも真理に従う人々には勝利と喜びが備えられている。
2017/12/16(土)担当 高谷由紀子師 ?テモ3:14-17 新聖歌196
テモテは敬虔なキリスト者であった祖母ロイスと母エウニケから聖書の言葉を聞き、教えられて育ちました。神の言葉に養われて立派な伝道者に育ったのです。この聖書についてパウロは「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」と述べています。また詩編には「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」(詩119:105)と詠われています。
まことに、聖書は神の霊の導きの下に書かれた、わたしの道の光であり、わたしの歩みを照らす灯です。日々聖書に親しみ、み言葉の導きの内を歩みましょう。”,,734″
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