≪デボーションの友≫2023/3/27-4/1

2023/3/27(月) 担当 高谷清師 マル15:16-32  賛美 聖歌(総)402 聖歌 402

 マルコは死刑判決を受けられたイエスをピラトから引き渡された後、イエスを十字架につけるまでの兵士たちの行動を記した後、「こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。(†底本に節が欠落 異本訳)」と記している。「その人は犯罪人の一人に数えられた」という言葉はイザヤ書53:12の中の一部である。イエスがこの世に来てくださったのは犯罪人の一人に数えられる為であったのである。罪人―それは世にかつて生存し、今生存しており、将来生存するであろう、神の御子イエスを除く全ての人である(ロマ  3:2)。すべての人の中で罪の無い御子イエスが我々の全ての罪を担うために罪人の一人に数えられてくださったのである。更にマルコは「没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。」と記している。没薬を混ぜたぶどう酒ーそれは十字架刑受刑者の苦痛を和らげるために与えられるものであったと言われている。イエスはそれをお受けにならなかったのである。神の御子であり、罪の無いお方であったイエスが父なる神の御心に従い、世の罪を負い、十字架に架かり、その苦しみを十全に味わい、死んでくださったのである。それはすべて、罪ある者の救いのためであり、我々に対する愛の故であった。

2023/3/28(火)担当 ラウジー満世師 創世記33:1-11 賛美 聖歌総合版526 聖歌508

 見知らぬ人との格闘の後、ヤコブはついに兄と対面する。長い逃亡が終わろうとしている。ヤコブは一行を組み分けし、7度も地にひれ伏しながら兄への尊敬を表した。エサウはただヤコブのもとに走り、豊かな愛情をもって迎えた。二人の間には言葉にするまでもなく和解がもたらされた。ヤコブは家族と財産について神からの祝福だとは語らず、恵み、すなわち憐れみによって与えられたものであると語る。父の家を離れてから幾多の困難の中で神はヤコブを憐れんでこれらを与えて下さったのである。さらにエサウへの贈り物については神から与えられた祝福を兄に贈ると伝える。かつて兄から奪い取った祝福を兄に返すことによってヤコブ自身の心からの謝罪と和解の望みを示している。

 エサウがヤコブを赦して受け入れるに至った経緯は全く語られない。しかしエサウ自身も多くの僕を持つほどに祝福され、一つの強く豊かな家を築いている。長い間の苦難を通して神はヤコブを変え、またエサウをも強くし、弟の裏切りをも赦す者としてくださった。和解はそれぞれに働く神の恵みと祝福の賜物である。

2023/3/29(水) 担当 高谷清師 マル15:16-32  賛美 聖歌(総)250 聖歌 273

 マルコは「祭司長たちも律法 学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」と記している。この箇所について竹森満佐一師は

「これは祭司長と律法学者であります。つまり旧約聖書の信仰が、分っている人たちでありました。そういう人びとでも、なお、キリストによって見たいと思ったものは、何か魔術のような力が、神の力としてあらわされることだ、と言っていたことが、ここに、示されているからであります。(中略)つまり、神の独り子が、自分と同じ罪人となってくださって、自分を救う業をしてくださることがねがいではなくて、何か、自分が得をするような、自分に利益のあるような意味での、神の力が、どこかにあらわれて来ないか、それを、この人が、示してくれたら、いいのではないかということなのであります。(中略)これは、あざけりの言葉であるとともに、彼らの本音をあらわしたものであります。つまり、彼らは、自分は、神の救いは、必要がないと思っているのです。ただ、自分の、今ある、この生活に、もっと何かが加えられること、そういう意味での神の救いというか、神の力を求めているだけであったのであります。彼らは、自分が罪人だと思っていないのです。だから、自分と閉じ立場にたって、自分を救ってくださるという意味での救いは、考えていないのです。罪人と共に数えられるこの神のみ子のみ業は、彼らには、結局、分らないということであります。さきほどの場合と同じように、ここにも、彼らのじつに、わがままな、そして信仰の分らない立場が、かえって、主イエスのみ業が、どんなに、大事なものか、ということを、逆に、証明している、と言っていいのではないかと思います。」『わが主よ、わが神よ』P416-418』教文館2016)

と述べておられる。イエスはサマリアの女に対して 「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハ4:13-14)」と教えておられる。肉の欲望の充足は真の救いを、永遠の命をもたらさない。イエスの十字架だけが真の救いを得させる。

2023/3/30(木)担当 ラウジー満世師 創世記33:12-20 賛美 聖歌総合版500 聖歌483

 長年にわたる仲違いの末に兄弟は感動的な和解を果たした。エサウはヤコブに共に帰ろうとしたが、ヤコブは丁重にその申し出を辞退する。兄の一行は400人の男性たちであるが、ヤコブの一行は女性や子供を含む。これらの違いのゆえに、和解の後も一緒に歩みを進めるよりも独自に歩むほうが良い。兄も弟の申し出を受け入れてそれぞれの道を歩んでいくことに平和裏に同意する。エサウはセイルへと帰って行ったが、ヤコブはスコトへ向かい、そこに家と家畜小屋を建てて住まう。

 和解の後もそれぞれにふさわしい方法で、別々の場所で神の導きの内に生きていく。しかし今回の別れはお互いに受け入れあい、理解し合ったうえでの新しい生涯の始まりとなる。ヤコブが土地を購入して祭壇を立てて住んだことにより族長たちの生涯は定住へと移行する。すべてのことの内に神の導きがある。恐れの中でも前進する時に与えられる平安と喜びがある。信仰によって歩むところに道が開かれる。

2023/3/31(金) 担当 高谷清師 マル15:16-32  賛美 聖歌(総)427 聖歌 425

 十字架に架かられた主イエスに対して群衆や祭司長たちや律法学者たち・・・・・様々な人々が一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱した。彼らがイエスを罵った言葉で共通しているのは「今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」と言うものであった。イエスは宣教を始められるのに先立って悪魔の誘惑を受けられた。悪魔は世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。(マタイ4:9)しかしイエスは「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」と答えて悪魔を退け、勝利された。この箇所について佐藤司朗師は

「十字架にかかって人を救うのか、それとも、降りて、人びとをその奇跡の力で信仰に導くのか、それはイエスの生涯にわたりついて回った問いであった。しかしイエスは既に悪魔に勝利した(マタイ4:11)。それゆえここで祭司長・律法主義者たちの「誘惑」に応じることはなかった。」(説教黙想アレテイアマルコによる福音書P476日本キリスト教団出版局2010)

と述べておられる。イザヤは「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。」(イザヤ53:10-11)と述べている。人間の思いではなく、神の御心だけが真の救いをもたらす。

2023/4/1(土) 担当 高谷清師 マル15:16-32  賛美 聖歌(総)396 聖歌 396

 佐藤司朗師は更に言葉をつないで

「十字架から降りろ、その声は今も内からも外からも強いと言わなければならない(Iコリント1:18-32)。イエスの十字架の死による罪のあがないをもし伝道の中心にすえないなら、それはイエスを十字架から「降ろす」ことをしているのではないのか。しかし我々はここではっきり知らなければならない、イエスは十字架を降りられなかった、とどまりつづけた、その死を遂げたということを。主イエスのその死による我々の救いのご意志がここ以上にはっきり示されたところはないのではないだろうか(10;45)。イエスは降りなかった。むろん降りることができなかったのではない。ある時イエスが語ったように、父に願って十二軍団以上の天使を差し向けてもらうことも可能であった(マタイ26:53)。しかし主イエスにとってみこころがなることこそ問題であった。「自分の救い」、自分の喜びがその中心の関心ではなかった。主イエスは十字架の道を、父なる神の示す人の救いの道として従順に歩み尽くしたのである。」(説教黙想アレテイアマルコによる福音書P476日本キリスト教団出版局2010)

と述べておられる。ヨハネは「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(Ⅰヨハ 1:7)と述べている。私たちに罪の赦しを得させ、永遠の命を得させるのはイエスの十字架の死による罪のあがないであり、病の癒し、経済の祝福はすばらしいものではあるが、命を得させるものではない。故に、イエスの十字架の死による罪のあがないこそ、伝道の中心でなければならない。