2019/6/17-22

2019/6/17(月) 担当 高谷清師 ヨハ 13:33 賛美 新聖歌 372

 ユダが出て行ったあとイエスはご自分の十字架が目前に迫っていること――弟子たちとの物理的別れの時――が差し迫っていることを思い、弟子たちに愛惜の思いを込めて「子たちよ」と呼びかけ、「いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」と語られる。また、イエスは「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」(ヨハ 16:7)と語られる。関田寛雄師は「この逆説の意味は何であろうか。それは弟子たちに聖霊による自立の道を開こうとする意図にほかならない(1613)。依存を生み出す愛はまことの愛ではない。「悲しみを乗り越えて」自立に向かわしめる愛こそまことの愛である。」(説教者のための聖書講解No3220日本基督教団出版局1980)と述べておられる。人は幼子の時には両親を始め、周りの人々からの愛によって成長する。しかし成熟する時、愛される者から愛する者へと変えられる。愛する者へと成熟しなければ親となることはできない。神から愛されることを求めるだけでなく神と兄弟姉妹を愛する者となろう。
 
2019/6/18(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書8:1-3  賛美 新聖歌320
 イスラエルに向かって敵の軍隊が攻め込んでくる。預言者はそれを見て民に警告の角笛を吹くよう命じられた。鷲はかつて神が主の民を保護して運ぶことの象徴として用いられた(出エジプト19:4)が、ここでは明らかに主の家に対して襲いかかる敵である。自らは神に従っていると語っているイスラエルになぜ敵が襲い掛かり、神はその敵を押しとどめるのではなく、民に対して警告するように命じられるのか。それは民の実際の姿が彼らの語るように神に従う姿ではなかったからである。イスラエルの真の姿は神を拒み、恵みを拒否するものであった。どれほど言葉によって神を知っていると述べても、民の信仰は行いに至る生きた信仰ではなかった。
 口先だけの信仰になってはいないだろうか。神を信じて神を愛し、従っていると言いながら、都合よく神を利用するだけで心を込めて神の言葉に忠実に歩むことは拒否する生活はしていないだろうか。行いの伴う信仰者でありたい。
 

2019/6/19(水) 担当 高谷清師 ヨハ 13:34-35 賛美 新聖歌 214

 イエスは「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と語られる。ヨハネの手紙?は「愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。」(?ヨハ2:7-8)と述べている。「互いに愛し合いなさい」という掟は古い掟であり、同時に新しい掟である、即ち永遠の掟である。それはいかなる時代にも、いかなる場合にも、いかなる状況下においても不変の掟である。兄弟姉妹の間において愛が全うされなければならない。
 
2019/6/20(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書8:4-6  賛美 新聖歌299
 偶像がまた問題になっている。イスラエルを取り巻くカナンの地域では動物の生命力を象徴する像によって神を表現し、その像を拝んでいた。北イスラエルもいち早くヤラベアム一世の時代に金の子牛の像を造って礼拝していた。ホセアはここでこの偶像を指しているのであろう。何度預言者を通して警告を受けても、民はこの偶像礼拝から離れなかった。人の手で造ったものを神としてしまった。しかし人の手によって作られたものが神であるはずがない。そのようなものが神になることはできない。
 旧約聖書において偶像礼拝が何度神によって戒められ、人の手で作った像に力がないと述べられたであろうか。またそのたびに神は自分の手で刻んだ木切れを神とすることの愚かさと滑稽さを指摘されている。私たちもこのような指摘を受けて彼らをあざ笑うかもしれない。しかし神以外の者に頼ろうとする心はいつでも私たちの心のすきに滑り込む。真の神だけを礼拝しよう。正しい礼拝へと日々導かれる聖霊の御声を聞こう。
 
2019/6/21(金) 担当 高谷清師  詩 45:8 賛美 聖歌 96
 詩人は「神に従うことを愛し、逆らうことを憎むあなたに/神、あなたの神は油を注がれた/喜びの油を、あなたに結ばれた人々の前で。」と詠う。神によって油を注がれた王は「神に従うことを愛し、逆らうことを憎む」者であった。こう記すことによって、神によって油を注がれた王はその王権の行使を神の御心に従って行うのであって、自らの気ままな欲望の充足のために恣意的に行うのではない。ぺトロは「さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。」(?ペテ5:1-4)と述べている。神から委ねられた召しを我欲ではなく、御言葉によって全うしていきたい。
 

2019/6/22(土)担当 高谷由紀子師 ヨハ 9:1-3 賛美 新聖歌 358

 生まれつき目の見えない人に出会った時、弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と。人は病気に罹ったり災害に遭遇したりするとその原因を本人あるいは本人の関係者が罪を犯したためではないかと考えます。しかしイエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と答えておられます。私たちが不幸と思うことであっても主はそれを通してご自分の権能と栄光をあらわされるお方です。