2018/9/17-22

2018/9/17 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10:7-9 賛美 新聖歌 238
 7節においてイエスは「わたしは羊の門である」と語られる。イエスはまた「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハ14: 6)と語っておられる。ぺトロは「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使 4:12)と語っている。この箇所についてジョン・C・ライルは「イエスが宣言されたことは、ご自身が門であり、羊も羊飼いも神の囲いに入ろうとするなら、信仰によってこの門を通らねばならないということである。『もし神の群れに加わろうとするならば、すべての羊は例外なく私を通らねばならない。また神の群れの牧者のなろうとする者は誰でも、わたしを見てその職務につかなければならない。』(ライル福音書講解ヨハネ2P472聖書図書刊行会1987)」と述べている。
 イエスを信じる以外に救いはない。イエスを知るだけではなく、イエスを信じる信仰によって救いの恵みの内を歩もう。

2018/9/18(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書37:1-10 賛美 新聖歌282
37章からゼデキヤ王の時代に入るが、この時からエレミヤがエジプトに連れて行かれるまでの彼の苦難が客観的に記されている。バビロン王ネブカドレツァルによって王に据えられたゼデキヤはエレミヤの預言を聞く耳を持ち、二人の高官を送っている。当時バビロン軍は南からの支援軍であるエジプトを見て一時エルサレムの包囲を解いた。一時的に好転した状況でエレミヤに二人の使者を送ったゼデキヤ王は見通しの明るい預言を聞くことを期待していたかもしれないが、神は一時的に好転した様な状況が続くことはないと語られた。
 人は目の前の刻々と変わる状況に一喜一憂し、少しでも状況が好転すれば神の裁きが撤回されるという楽観的で根拠のない肯定的な期待を持つ。しかし裁きはそれによって変更されない。重要なのは刻々と変わる戦況ではなく、心からの悔い改めである。神の前にへりくだって罪を悔い改めることを神は求めておられる。

2018/9/19(水) 担当 高谷清師 ヨハ10: 7-9 賛美 新聖歌 252
 イエスは更に「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」と語られる。この箇所についてジョン・C・ライルは「「わたしは神に近づく道である。すべてわたしによって父のもとに来る者は、牧者であれ信徒であれ、わたしを通して平安と自由を見出し、魂のために尽きることのない食物を得ることができる。」(中略)「出入りし」という表現は、住居として自由に用いるという慣習を表しており、囲いを家のように使っていることを示す。これがヘブル人の考え方である。それは言うなれば、真の信者が喜びとする、キリストとの絶えざる交わりを美しく描写しているものと言える(ライル福音書講解ヨハネ2P475−476聖書図書刊行会1987)」と述べている。イエスを通って、イエスを信じて神のもとに行くとき、神との深い交わりに入れられ、神の満ち満ちる祝福に与ることが出来るのである。

2018/9/20(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書37:11-16 賛美 新聖歌165
 カルデヤ軍、すなわちバビロン軍がファラオの援軍を見て一時的にエルサレム包囲を解いて撤退した時、エレミヤには少しの自由が与えられた。郷里で必要な手続きをするために出かけて行ったエレミヤはすぐさま捕えられてしまう。これがエレミヤを捕えるための言いがかりだったのか、本当に彼が敵に投降することを恐れての措置であったのかは語られていない。しかし監禁されたエレミヤが受けた扱いは厳しいものであった。高官たちに痛烈な批判をしてきたエレミヤに、彼らは今敵意を露わにして彼を長期間拘束した。
 私たちは「神はどうしてエレミヤを即座に救出されず、苦しみの中に放置されているのか」と問いたくなる。たとえ神に従っている人であっても、神はこのような苦しみの状況にしばらく置いておかれることもある。神に従うことは常に人が求める最高の安全が約束される道ではない。それでも神に対して忠実であり得る秘訣は神への信頼である。

2018/9/21(金) 担当 高谷清師  詩 38:22-23 賛美 新聖歌 233
 ダビデは「主よ、わたしを見捨てないでください。わたしの神よ、遠く離れないでください。わたしの救い、わたしの主よ/すぐにわたしを助けてください。」と祈る。彼は自らが犯した過ちの故に神に打たれ、負わされた傷は膿んで悪臭を放っていた。そのような彼を、愛する者も友も避けて立ち、彼に近い者も、遠く離れて立つ有様であった。このような状況のなかでも彼は神に近付き、神の助けを求める。この箇所についてルターは「神は捨てられた者でないと、受けいれない。病人でないと、健康にしない。盲人でないと見えるようにしない。死人でないと、生かさない。罪人でないと、救わない。愚者でないと、賢者にしない。要するに、神は悲惨な者でないと、あわれまない。不遇のうちにいる者でないと、恵まない。それゆえ高慢な聖徒や賢者、あるいは義人は、神の仕事の材料になりえない。彼らは神のわざを自分のうちに受けいれないで、自分自身のわざにとどまり、自分自身を、外観上の、偽りの色づけをして捏造した聖徒、すなわち偽善者にする。」(マルティン・ルター 詩篇講解抄P187新教出版社1961))と述べている。真実に悔い改め、自らを低くする者を神は受け入れられる。

2018/9/22(土)担当 高谷由紀子師 ヨハ 21:20-23 賛美 新聖歌 337
死から復活された主は弟子たちに会い、三度「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。ぺトロが主に従って行き、振り向くと、共に主に仕えてきたエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えたので「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言いました。これに対して主は「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」と言われました。私たちが信仰生活を送っていくとき、周りの人のことがいろいろ気になります。あの兄弟はなぜ集会を休むのか、あの姉妹はなぜ奉仕をしないのか・・・。しかし主は「あなたは、わたしに従いなさい。」と言われます。周囲の人々に関係なく、自分と主との関係において全身全霊をもって主に従いましょう。”,,562″