2018/9/10-15

2018/9/10 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10:1-6 賛美 新聖歌 389
 ファリサイ人たちが「我々も見えないということか」と言ったのに対してイエスは「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」と語られた。それに続いてイエスは「はっきり言っておく。」と言って語り始められる。この言葉を口語訳は「よくよくあなたがたに言っておく。」と訳しており、新改訳は「「はっきり言っておく。」と訳している。イエスが重大な事柄を話される時に語られる言葉である。この箇所では羊飼いと盗人・強盗についてである。当時のユダヤにおいては、牧羊は日常見られる光景であった。羊飼いたちは自分の羊を大切にし、一匹一匹名前を付け、朝、羊を囲いの門を通って連れ出し、先頭に立って導き、草を食べさせ、水を飲ませ、その間、あらゆる危険から守り、夕べには囲いの中に導き帰した。羊飼いたちは羊があらゆる危険から守られ、豊かに命を得る為に必要な、あらゆることを行ったのである。これが真の牧者の姿である。

2018/9/11(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書36:11-20 賛美 新聖歌436
 エレミヤ書を読んでいると同時代の真の預言者が命を奪われたり、エレミヤ自身も歓迎されなかったりということからエレミヤが完全に四面楚歌の状況にあったという印象を受ける。確かにエレミヤ自身、敵対する人々から様々な迫害を受けたり、語ることを妨げられたりするということを経験した。その中で、今日のテキストは驚くべき状況を伝えている。バルクがエレミヤを通して与えられた神のメッセージを聞いた高官の中に、この言葉を真剣に受け止めて王に伝えようとした人々がいた。更に彼らはエレミヤとバルクに危険が迫ることを予測して二人の安全を確保しようとした。
 これを読む時、最悪の時代、最悪の状況で真実を語ることについての一つの希望を見出す。誰一人神の言葉を真剣に受け取らないような状況、いやそれどころか真実を語ることによって身の危険にさらされるような時代でも、神が言葉を伝えようとされるならばそのために立てられた奉仕者が守られ、神の言葉が確かに聞くべき人に向けて語られる。私たちもこのことを信じてたゆまず福音を伝えて行こう。

2018/9/12(水) 担当 高谷清師 ヨハ10:1-6 賛美 聖歌 501
 一方、この箇所では盗人であり、強盗である者の姿も描かれている。彼らは門を通らないでほかの所を乗り越えて来る。彼らの目的は、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするため、つまり、羊の利益のためではなく、自分の利益のためである。イエスは羊について「ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」と言われる。ヨハネは真の羊飼いと盗人であり、強盗である者の見分けについて「しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。」(?ヨハ2:20)と述べている。ジョン・C・ライルは「真のキりスト者は霊的な直観力を持っており、それによって真の教えと偽りの教えとを識別することができる。彼らは健全でない教えを耳にすると、「これは間違っている」という内なる声を聞き、真理が語られる時には、「これは正しい」という声を聞くのである。鈍感な世の人々は、それぞれの牧師たちや説教に、どのような違いがあるかはわからない。これに対して、一般に、どんなに愚かなキリストの羊であっても、なぜ違うのかその理由は説明できないとしても、「違いを識別する」ことができるであろう。(ライル福音書講解ヨハネ2P459−460聖書図書刊行会1987)」と述べている。常に聖霊の証に耳を傾け、聖霊の導きによって歩もう。

2018/9/13(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書36:21-32 賛美 新聖歌389
 王に仕えていた役人たちの中にはエレミヤの預言を真剣に受け止めて王に伝えた人々がいた。しかしようやく王の耳に届いたこの言葉も王の心に届くことはなかった。王はこの言葉を聞きながら、読まれた巻物を破り、火に焼いた。これは王がどれほど神の言葉と神ご自身を軽んじていたかを雄弁に物語っている。王は書き記された言葉が成就するわけはないと侮っていたのだろうか。あるいは巻物を燃やすことによって語られた絶望的な将来が取り消されると考えたのであろうか。しかしどれほど人間が神の言葉を拒んだところで神の言葉はその力と権威を失うことはない。主は巻物を燃やしてしまった王に対してさらに具体的に彼自身の死と子孫についての災いを告げられる。そしてそれが歴史において成就する。
 人が何を企てようとも、神が権威をもって語られた主のことばはそれによって廃止されることはない。神の言葉は必ず成就するのである。怖れと真実をもって神の言葉に聞き従おう。

2018/9/14(金) 担当 高谷清師  詩 38: 17-21 賛美 新聖歌 394
 ダビデは「わたしは今や、倒れそうになっています。苦痛を与えるものが常にわたしの前にあり、わたしは自分の罪悪を言い表そうとして/犯した過ちのゆえに苦悩しています。」と告白する。この箇所についてカルヴァンは「信仰者が世俗的な人間と異なるのは、逆境を通じてみずからの罪咎を知らせられると、へりくだって、神のさばきの座に出頭する点にある。かくのごとく、しるしと結果とによって原因を思い見て、ダピデはふたつの事柄を一緒に包括する。すなわち、打ち倒され・転倒して、禍の重荷のもとに足が滑るということ、しかして、これらの災厄は正当な処罰であるということ、のふたつをひとつに結びつける。(カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P16新教出版社1971)」と述べている。それに対して敵対者たちは、この機会をとらえて、強大になり、偽りを重ね、善意に悪意をもってこたえる。このような状況にあってダビデは「わたしの足がよろめくことのないように」祈る。
 この時点のダビデのような境遇に立たされると人は敵対者たちを非難し罵り彼らの不当を暴き、非難しょうと言う思いに駆られる。しかしダビデは神の御心を受け入れ、祈り、御手に委ねる。これが信仰者の道である。

2018/9/15(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 18:18-23 賛美 新聖歌 427
 金持ちの議員は財産も地位もあり、この世においては不測の無い、豊かな生活をしていました。しかし、自分の内で何か足りないものを感じていました。そこで主を訪ね、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねました。財産はこの世の生活においては安全と快楽をもたらすでしょう。道徳は栄誉と信頼を得させるでしょう。しかし、それらは永遠の命を受け継ぐ保証とはならないのです。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハ 14:6)と言われた主を信じる信仰だけが私たちに永遠の命に得させるのです。”,,575″