2017/11/13-18

2017/11/13(月) 担当 高谷清師 ヨハネ ヨハ 6:28-33 賛美 新聖歌 240
 27節の「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言うイエスのすすめの言葉を受けて人々は「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と問うた。これに対してイエスは「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」と答えておられる。神の義を求めないで自分の義を追い求める人々は常に神との関係において「自分は何をしたらよいか」と尋ねる。パウロがキリストを信じる信仰のみによる救いを説いたガラテヤ教会に、パウロがガラテヤを去った後律法主義者が入り込んで「イエス・キリストを信じる信仰だけでは救われない。救われるためにはモーセの律法を守り、行い、割礼を受けなければならない」と説いてガラテヤ教会に混乱を引き起こしたことは聖書の告げるところである。しかし、律法は私たちに違反を示し、それによって私たちを罪に定め、死を宣告するものであって、私たちに救いをもたらすことはできない。私たちに救いを得させるのはイエスキリストを信じる信仰だけである。

2017/11/14(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書14:1-12  賛美 新聖歌35
 民はひどい旱魃で苦しんでいる。本来おとなしい雌鹿でさえも産んだ子を捨てるほどの厳しい旱魃である。この状況に直面して、エレミヤは民のためにとりなして祈る。民は自身の罪を認め、自力で救い得ないことを知り、神が救済者としてふさわしく立ち上がって救いを行われることを求める。これらの言葉に感じられるへりくだりと悔い改めを聞く時、私たちは救いが近いことを期待して安心する。しかし意外にも神は、エレミヤに対して民のためのとりなしの祈りを禁じ、民の断食や叫びや献げものなどの一切の宗教的儀式を受け入れないと言われる。
 神は気まぐれで意地悪な方なのだろうか。そうではない。民の言動がどれほど霊的で謙遜に見えても、神はその言動の裏にある、民の相変わらず偶像に頼る定まらない心や、宗教儀式を形式的に行い、本当の悔い改めと謙遜が伴わない態度を見抜いておられた。神が求められるのはいつの時代にもいけにえではなく、悔いた心である(詩篇51:18-19)ことを覚えたい。

2017/11/15(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 6: 28-33  賛美 新聖歌 135
 「人が救われるのは行いによるのではなく、信仰のみによる」と言われる時「わたしはイエス・キリストを信じます」と言えば、良い行いは必要ではない、換言すれば「わたしはイエス・キリストを信じます」と言えば何をしてもよいと言う議論が起こってくる。それについて大宮溥師は「信仰義認はパウロの特有の教理というのではなく、キリスト教信仰そのものの「立ちもし倒れもする条項」なのである。このことは、信仰以外のものを無用とすることではない。むしろ、われわれの全体を信仰によってイエス・キリストにゆだねる時、われわれのすべての生活と行為が、彼の導きのもとにおかれるからである。したがって、信仰なしには、すべての行為は自己義認の企てとしてさばかれるが、信仰に生きる時に、そこから出るすべての行為が「神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物」(ロマ12: 1)として受け入れられるのである。「信仰は、慈愛やその他のどんなよいわざも排除するものではなく、それらをすべてふくんでいるものである。それというのも、信仰が神のただひとつのわざと言われるのは、信仰を通じてキリストを所有することによって、わたしたちが神の子供たちとされ、かれの聖霊によって導かれることになるためだからである。(説教者のための聖書講解No29P13日本基督教団出版局1979)と述べておられる。自らを聖霊に委ね、聖霊の導きの内で良き業に励もう。

2017/11/16(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書14:13-16  賛美 新聖歌385
 神の容赦ない裁きが下されようとしている中、預言者達は相変わらず民に平安を告げている。この預言者達は歴史において幾たびも民を救ってくださった救いの神が今回も彼ら自身のとりなしを通して同じように平安を与えてくださると純粋に考えていたのかもしれない。しかしそれに対して神はこの預言者達を拒まれた。神の目から見れば、預言者達もまた神が民のうちに見出している偽りの悔い改めのポーズを見抜かず、民と同じ土俵に立って根拠のない神の救いの業を確信してしまっている人々となっていた。預言者達の動機がどうであろうと、正義と神への本当の献身と悔い改めを求められる神の御心を知らずして、裁きが続く時に救いを軽々に語るものはもはや神のことばを民に取り次ぐものではなくなっている。
 人は苦境に立たされると慰めと平安を求め、神からの言葉ではなくても平安を伝える言葉にだけ耳を傾ける。神のことばを取次ぐ者がこの様な偽預言者になってしまわないよう、注意しよう。また、神を信じる人々も偽りの平安を宣言する言葉に惑わされることがないよう、本当に神が求められる真の悔い改めと正しい神との関係を日々求めて歩もう。

2017/11/17(金) 担当 高谷清師  詩編35:17-18 賛美 新聖歌 5
 神に捨てられ、世の権力者となったサウルは、妬みと権力欲のためにダビデを亡き者としょうとして執拗につけねらった。その為ダビデは命がけの逃避行を続けなければならなかった。ダビデは主に訴え祈ったが、ダビデには、主は静観しておられるように思われた。そこでダビデは「主よ、いつまで見ておられるのですか。彼らの謀る破滅から/わたしの魂を取り返してください。多くの若い獅子からわたしの身を救ってください。」と祈る。それは「優れた会衆の中であなたに感謝をささげ/偉大な民の中であなたを賛美できる」為である。
 私たちが祈るのは、自分が裕福な生活をするためであってはならない、自分の力を誇示するためであってはならない、神に感謝をささげ、神を賛美するためであるべきである。ヤコブは「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」(ヤコ4: 3)と述べている。常に、一切の栄光を主に帰し、賛美しつつ歩もう。

2017/11/18(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 19:1-10 新聖歌 340
 ザアカイは徴税人の頭で、金持ちでした。しかし、友も無く孤独で寂しい生活を送っていました。そんなある日、イエス様がザアカイの住んでいる町を通られ、彼の家にお泊りになりました。イエス様との親しい交わりの内で悔い改めに導かれ、ザアカイの心は変えられました。強欲一点張りであったザアカイが「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」と告白したのです。この告白を聞いてイエス様は「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」と語られました。イエス様こそ、神無く望み無き者を救ってくださるお方です。”,,695″