2016/1/25-30

2016/1/25 (月) 担当 高谷清師  ?ペテ2:21-25 賛美 新聖歌 427
 ぺトロは「あなたがたはいやされました」と述べている。イザヤは「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザ 53:3-5)と述べている。主イエスは私たちに罪の赦しを与え、癒しをも与えてくださるお方である。とは言っても、ある人々のように「医者に行くのは不信仰だ」などとは言わない。日進月歩する医学は神が与えてくださる素晴らしい恵みとして受けるべきである。しかし、真の癒しは主にあることを忘れてはならない。

2016/1/26(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書25:1-5 賛美 新聖歌165
 主の栄光について24章の終わりに語ったのち、ここでは神への賛美をささげ始める。ここでは神の驚くべき御業をたたえつつも、「主よ、あなたはわたしの神」(25:1)と述べている様に、神との近い関係が表れている。真実にみ言葉を成就なさった神はどのようなお方なのだろうか。それは暴虐な民が誇る堅固な都を恐るべき御業によって滅ぼされる方である。13章から諸外国に向けた神のことばとして、神を侮り高慢になった国々への裁きを見てきたが、まさに終わりの時には神の裁きが成就すると語っているようである。対照的に、イザヤ書の冒頭でも述べられている様に、イスラエルの中でさえ虐げられてきた弱い者達には神が避け所となってくださる。最終的に神が栄光をあらわされるところでは人間の罪に満ちた社会が一転する。神を恐れず、私腹を肥やし、砦を築き上げた国々は滅ぼされるが、虐げられる中で神に頼るしかない人々が顧みられる。
 私たちの賛美を受けるお方は正しく裁かれる方である。み言葉を必ず成就される偉大な方であるにもかかわらず、私たちと共にあり、ささげる賛美を受け取ってくださる方である。

2016/1/27(水) 担当 高谷清師  ?ペテ2: 2:21-25  賛美 新聖歌 318
 「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」と述べている。マタイは「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(マタ9:36)と記している。そして主は「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハ 10:11)と語られた。更に「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」(ヨハ10:10)と語っておられる。主は罪によって神から離れ、生きる意味を見失い、絶望の中をさまよっていた者を、ご自身の十字架の血潮によって御許に帰らせ、罪と誘惑、あらゆる悪しきものから守り、義の道へと導いてくださるのである。全幅の信頼をもって主に従うとともに、神無く、望みなく絶望の中をさまよう魂に魂の牧者であり、監督者である方を証ししていこう。

2016/1/28(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書25:6-12 賛美 新聖歌339
終わりの時に神が地を正しく裁かれる。その時には「この山」(25:6)で祝宴が開かれる。1節からの賛美がささげられたときの状況が25章の後半で少し明らかになる。それは勝利の宴であった。最終的に神が定められた通り、選ばれた場所で、神の民すなわち神を信じて神に望みを置き続けてきた人々は虐げと苦しみから解放され、恥が取り除かれる。まさに長い裁きと苦しみの時を経てようやく待ち望んでいた救いが与えられるのである。
 神は不信仰なものに信じることを求められた。神を恐れず、罪を犯し続ける者には立ち帰るように警告を与え、裁きを告げられた。しかしこれを聞いた人々は神の力を悟ることが出来ず同じ生活をつづけた。ここで最後の時に起こることが明示されている。それは神のことばは成就し、適切な裁きが行われるということである。私たちは裁きの時に賛美をささげる側にいるだろうか。喜びを分かち合うことが出来るだろうか。主を認め、主と共に歩もう。

16/1/29(金) 担当 高谷清師  詩編10:12-18  賛美 新聖歌 341
 主をたたえながら、侮り、「わたしは揺らぐことなく、代々に幸せで災いに遭うことはない」と心に思い、口に呪い、詐欺、搾取を満たし、舌に災いと悪を隠し、貧しい人を網に捕えて引いて行く神に逆らう者の姿を見て詩人は「立ち上がってください、主よ。神よ、御手を上げてください。貧しい人を忘れないでください。」と訴える。そして信仰によって「あなたは必ず御覧になって御手に労苦と悩みをゆだねる人を顧みてくださいます。不運な人はあなたにすべてをおまかせします。あなたはみなしごをお助けになります。」と言い表す。それは歴史を見れば明らかである。神に逆らう者は一時は栄えてもやがて消え失せる。サウル、アブサロム、・・・。そして詩人は「主は世々限りなく王。主の地から異邦の民は消え去るでしょう。主よ、あなたは貧しい人に耳を傾けその願いを聞き、彼らの心を確かにし みなしごと虐げられている人のために裁きをしてくださいます。この地に住む人は再び脅かされることがないでしょう。」と告白する。小畑進は「今日でも悪の力は強大です。あるいは「伝統」の名において、あるいは「国家」の名において、あるいは「人民」の名において、あるいは「共同体」の名において、悪徳は盛大に行われ、弱国、貧民は蹂躙されていきます。特に、主なる神に仕える民らの願いは踏みつぶされていきます。第10篇の問題は古くて新しい問題です。これからも、この主題は何度も取りあげられて歌われていくわけで、究極的には主イエス・キリストの再現が待望されるのです。」(『詩篇講録上』P120いのちのことば社)と述べている。主の約束を望みとして御足の跡を歩もう。

2016/1/30(土) 担当 高谷由紀子師 マルコ6:45-52  新聖歌316
イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先のベトサイダに行かせられました。しかし舟は逆風のために波に悩まされていました。弟子たちが難渋しているのを知ってイエスは夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれました。これを見た弟子たちは「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげました。イエスはすぐ彼らに話しかけ、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われました。
 主は弟子たちと行動を共にせず、離れたところにおられましたが、常に彼らの状態を知り、必要な時に手を差し伸べてくださいました。私たちの生活にも予期しない困難や戦いに遭遇することがあります。しかし主はそれらのすべてを知り「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言って手を差し伸べてくださるお方です。それ故、常に信頼して前進しましょう。”,,1073″