≪デボーションの友≫2022/10/31-11/5

2022/10/31(月) 担当 高谷清師 ガラ 4:1-7 聖歌(総)547  聖歌 525

 「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」と語ったパウロは「相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。」と語る。約束によって相続人とされた者達も未成人の間は―時が満ちるまでは―後見人や管理人の監督の下におかれていた。キリストが来られるまではユダヤ人は律法のもとに、律法を持たない異邦人は世を支配する諸霊に奴隷として仕えていた。この異邦人の状態についてパウロは「キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」(エフェ 2:12)と記している。この状態はキリストを受け入れることを拒む人々の上に今も続いている。彼らについてパウロは「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」(フィリ3:18-19)と記している。ここに祈りと宣教の必要性がある。み言葉を伝えよう。

2022/11/1(火)担当 ラウジー満世師 創世記19:30-20:7 賛美 聖歌(総)449 聖歌447

 20章のアビメレクとアブラハムの出来事は12章のエジプトのファラオとの間での出来事を思い起こさせる。今回もサラがアブラハムの妹だと紹介されていたことから問題が起こる。実際には妻であったことを知らずにサラを召し入れたアビメレクに神は語り掛け、罪を指摘する。しかしアビメレクは、自分が知り得ない事実に基づいて行動した結果こうなったにも関わらず裁かれるのかと訴えた。神は彼の主張を受け入れ、だからこそアビメレクを罪から守ったことを伝え、サラとアブラハムの事情を知った今正しい行動をとるように促す。神は知りうる事実の範囲の中で正しく振舞っていたアビメレクを、知らずに犯す危機にあったその罪から守ってくださった。

 神を信じる者として私たちは罪を犯さぬように日々主に祈りつつ正しい道を選ぶ。しかし知り得ずして罪に陥る危険は常に身近にある。守ってくださるのは全知全能の神である。今日も主がすべてにおいて守り、正しい道を歩ませてくださいと祈ろう。

2022/11/2(水) 担当 高谷清師 ガラ 4:1-7  聖歌(総)218  聖歌243

 パウロは「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」と語る。神はご自分が定められた時が到来するに及んでご自分の独り子を完全な人間として世に遣わし、律法のもとにおかれた。この箇所についてヘルマン・ウォルフガング・バイヤーは

「彼は、律法の下にある人々の―それはすなわち全人類の―窮状を完全にわがこととして身に負い、みずから「世の物質的霊力」に従属させられ、律法の呪いを負って砕かれなければならなかった(3:13)。それは、こうして人類を律法への隷属状態から引き出し、子たる者に固有な自由の身分へと解放するために、なくてならぬできごとであった。」

(NTD新約聖書註解8 パウロ小書簡P86 NTD新約聖書註解刊行会1979)

と記している。ぺトロは「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使 4:12)と語っている。イエスこそ、唯一の救い主である。

2022/11/3(木)担当 ラウジー満世師 創世記20:8-18 賛美 聖歌(総)538 聖歌520

 アビメレクとは対照的にアブラハムの罪は人々に知られる。アブラハムが欺いたことが非難され、それはしてはならないことだったと明言される。アブラハムは懸命に自己弁護をするが、彼自身は自分の罪を知っており、その釈明に終始している。神は先のアビメレクの時とは対照的に、アブラハムは罪がないとは宣言されない。

 神はアブラハムを世界の祝福の基として選ばれ、その時からいつも共に歩んでこられた。しかしその親しい関係に基づいて罪を不問に付したり、無視したり、黒を白と言ったりなさらない。聖なる神はえこひいきなさらない。罪は罪である。罪については聖書に明確に語られている。神に罪を赦されて、キリストを通して神の子とされたという特権意識によって罪が見過ごされることを期待することがないよう、きよさを求めよう。

2022/11/4(金) 担当 高谷清師 詩 71:20-21 賛美 聖歌(総)33 聖歌 91

 詩人は「わたしもまた、わたしの神よ/琴に合わせてあなたのまことに感謝をささげます。イスラエルの聖なる方よ/わたしは竪琴に合わせてほめ歌をうたいます。わたしの唇は喜びの声をあげ/あなたが贖ってくださったこの魂は/あなたにほめ歌をうたいます。わたしの舌は絶えることなく/恵みの御業を歌います。」と詠う。24節の新共同訳が「恵みの御業」と訳しているところを口語訳と新改訳は「あなたの義」と訳している。イエスは「義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」(マタ 5:10)と教えておられる。またパウロは「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」(ロマ 1:18)と記している。歴史をひもとくと信仰をもって神に従おうとする多くの人々が世の不義なるものによって苦難に遭遇し、命を落とした人々も少なくない。しかし、御言葉は神の最終的勝利を確言している。それ故、主を信じる者は如何なる苦難の中に在っても心の底から全身全霊をもって神を賛美するのである。

2022/11/5(土) 担当 高谷清師 ルカ 18:9-14 賛美 新聖歌237

 この箇所にはファリサイ派の人と徴税人の祈りの譬えが記されている。ファリサイ派の人は当時の社会の指導的立場にあった人であり、民衆からは「先生」として尊敬されていた。一方、「徴税人」はロ―マ帝国の請負人として同胞イスラエル人からロ―マのために税を徴収する人であり、イスラエルの人々からは蔑まれていた。ファリサイ派の人は心の中で

「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と祈り、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と祈った。そしてイエスは「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と教えておられる。私たちが祈ろうとして神の前に出る時、自らを低くすることが求められるのである。