2014/3/10-15

 2014/3/10(月) 担当 高谷清師 ?コリ5:1-5賛美 新聖歌343

 「そんなことをした者を既に裁いてしまっています」と述べたパウロは、その裁きの内容を「サタンに引き渡した」という。これは具体的には除籍、除名、破門―時代、所属によって用語はいろいろあるであろうが―であろう。教会はキリストの支配のもとにあり、神の御心が行われているところ、愛と恵と命に満ち溢れているところである。パウロは教会について「この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない(エペ 2:12)」と述べている。一方、世について「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした(エペ 2:1-3)」と述べている。御子の贖いの恵みにより、信仰によってキリストの体に属するものとされている恵を深く想い、感謝しょう。
 
2014/3/11 (火) 担当 ラウジー満世師 列王記下23:36-24:7 賛美 新聖歌369
 ユダがいよいよ滅びに向かっての最期の時を迎えている。この末期の王たちについて聖書は一様に彼らが先祖同様に『主の目に悪とされることをことごとく行った』(23:37)と記している。すでにこの言葉を何度も耳にしている私たちは神の祝福がないことを理解する。やはりヨヤキムも彼の信仰、生き方に応じて様々な国々の部隊が次々とユダに対して差し向けられたということであった。
 ここで注目すべき報告がある。これらの部隊はユダを滅ぼすために主によって差し向けられた(24:3)という。これはあなたにとって驚きだろうか。しばしばクリスチャンは「祝福は神から与えられるが、あらゆる災いは悪から、あるいは悪霊から来る」と語る。そしてある時にはまるでお祓いをするかのように祈り、また献金を捧げるように勧められる。しかし、すべての災いが悪霊から来るのでないことをこの御言葉ははっきりと語る。少なくともこのことを私たちは心に留めておかなければならない。
 

2014/3/12 (水) 担当 高谷清師 ?コリ5:1-5賛美 新聖歌214

 パウロはその裁きの目的について「それは主の日に彼の霊が救われるためです」と述べる。これについて小畑進氏は「教会から切り離されること、いや、自分自身の怠惰で教会と絶縁している者は、この言葉によって、自らの今あるところが、いかに恐るべきところかと、目をさますべきです。いかに、厚顔無恥となっている者も、ひとたびその罪に相当する戒規に付され、除去されるときは、苦痛を感ずることでしょう。たとえ、彼が、どんなに不貞腐れて、平気を装おうとも、そこにサタンの恐ろしさを感じて、内心では神への思いを鮮烈に感ずることでしょう。それが、破門・戒規の目的であり、神に新たに返すためには、あえてサタンに渡すほどの生身の愛が実行されるのです。」(コリント人への手紙第一提唱P201)と述べておられる。  

 さばきの目的、それはその魂を悔い改めに導き、救いの恵みに立ち返らせることであり、愛から出るものでなければならない。決して人に対する妬みと憎しみから出てはならない。

 
2014/3/13 (木) 担当 ラウジー満世師 列王記下23:36-24:7 賛美 新聖歌302
 火曜日と同じ箇所からもう少し共に学びたい。ユダ王国の末期に起こった様々な外国からの攻撃の背後に神の御心があるということを見た。信じたくないようなことであるが、聖書にははっきりと証言されている。ではなぜ神はこのようなことをなされたのか?統一王国から分裂王国の歴史を通じて神はユダの罪を何度もご覧になり、そのたびに預言者を通して警告された。時には王を始め人々が悔い改めることもあったが、再び彼らは悪の道へ逆戻りし、神の言葉に従わなかった。不従順な民をご覧になり、神はユダをも北イスラエル同様に滅ぼすことを定められた。
 神は決して彼らを憎まれたからという感情において敵の手に渡されたのではない。ユダに対する神の要求は終始一貫していた。それは神と彼らとの間の約束に従って生きよ、戒めを守れということであった。その関係においてユダが従うべき責任を持っていたことを彼らはよく理解していた。それにも関わらず背き続けるユダに対して、最終的に神が裁きという決断をされたのである。
 災いが起こる時、それを悪霊によるとばかり決めつけるのが本当に御言葉に根差した信仰者のとるべき態度であろうか。悪霊が常に機会を狙っていることを否定するものではない。しかし、現実のなかで霊を見分けること、そして災いのなかにあって神の叱責を聞きわけ、あるべき生き方へ立ち返ることもまた重要である。私たちは今どこに立っているのだろうか?
 
2014/3/14(金) 担当 高谷清師 ?コリ5:1-5  賛美 新聖歌222
 パウロが「このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです」と述べていることについてなお一つのことを考えてみたい。教会はキリストの支配の領域であり、世はサタンの支配の領域であると書いた。しかしこれはキリストの支配とサタンの支配が同じ力をもって並立するものと考えてはならない。ヨブ記を見るとサタンは一章においてはヨブの所有物は任されているが、ヨブの身に手を付けることは許されていない。二章ではヨブがサタンに任されているが、命を奪うことは許されていない。黙示録を見ると終末における災いもまた、神の許しによってのみ起こることがわかる。このことから私たちの信じる神は、サタンをも御手に収める総ての支配者であることがわかる。全能にして全地の支配者、私たちを愛して私たちの救いのために独り子さえも惜しまず与えてくださる愛なる神に全き信仰をもって歩もう。
 

2014/3/15(土) 担当 高谷由紀子師 マルコ14:3-9   新聖歌337

 イエスは弟子たちと共に皮膚病の人シモンの家で食事の席に着いておられた時のことであった。突然一人の女が立ち上がり、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来てそれを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。これを見た何人かの人たちが彼女を厳しくとがめて「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」と言った。この人々の言葉は打算的な合理主義者の常識的な言葉であった。これに対して主は彼女の行いを擁護し、このことは語り伝えられると言われた。この婦人はこのときイエスが十字架の死に向かうことを知らなかった。しかし実際には聖霊に導かれ、彼女のできる限りの愛を示していたのである。愛は常識と打算を超える。自分の生活の安定を守ることに終始して計算高く自己中心に生きるのではなく、愛と真実をもって主に仕える歩みをしよう。