2016/3/14-19

2016/3/14 (月) 担当 高谷清師  ?ペテ3:9 賛美 聖歌 433
 悪をなす者に対してその悪を指摘するとき、逆に「聖書には『悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい』と書いてあるではないか。あなたはキリスト者ではない、あなたはその御言葉を信じないから」と言う者がいることも事実である。忠実なキリスト者よ、「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ロマ 12:17-21)と語られている御言葉に従い、彼らを主の御手に委ねよう。そしてそのような人々のためにも祝福を祈ろう。十字架上において自らを十字架に付ける人々に対し「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈られた主に倣う者となろう。

2016/3/15(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書30:18 賛美 新聖歌281
 17節までに列挙された民の罪と裁きの後に続いて語られる。人間の罪深さが次々と示され、希望を持てない中で、驚くべき恵みが語られる。罪深い人間の姿をご覧になりながらも、神は人を憎むのではなく恵みを与えようとして待っておられる。神ご自身が罪深い人間を目の前にして、裁きを行いながらなおかつ待っておられるのである。それはさらに厳しい罰を下し、人を懲らしめるためではなく、どうしようもない人々に対して恵みを与え、憐れみを与えるためであった。神の愛はどれほど深いかと言うことを改めて教えられる。神が憐れみ深い方であるがゆえに、罪深い時代の中で忍耐強く主に望みを置いてきた人々は幸いを得るのである。
 周りに罪が満ちている時代において人々が神に従わない中で、ましてや神を信じた人々も神から離れてしまうようなことがある中で私たちは忍耐強く主の恵みと赦しを待ち望み、忠実に歩み続けることができるだろうか。そのような困難に直面する中において、18節の御言葉はいかなる状況においても主に望みを置きつつ従う者には希望があることを思い起こさせてくれる。主に望みを置いて歩もう。

2016/3/16(水) 担当 高谷清師  ?ペテ3:9  賛美 聖歌 18
この箇所において「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」と語られている。何と素晴らしい御言葉ではないか。パウロも「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェ 1:3-4)と述べ、更に「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。」(エフェ1:11-12)と述べている。罪の赦しと永遠の命を与えるのみか、子とし、祝福の相続者としてくださる主を声の限り、力の限り、ほめたたえよう。

2016/3/17(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書30:18-26 賛美 新聖歌396
 18節において宣言されている神の憐れみがここに記されている。苦しむエルサレムの民の中で主に声をあげて呼び求めていた人々に対して主が様々な恵みを与えられる。これまで罪深い民に裁きとして災いのパンと苦しみの水を与えられた方が、叫び求める民に答えて正しい道へと導いてくださる。神と民との間にあって両者を隔てていた偶像を取り除き、穀物と家畜を豊かに与えられる。さらに民の傷をいやし、闇に代えて想像を絶するほど明るい光を与えられる。
 これらの回復は民が一つとなって神の前に悔い改めたから起こったのだろうか。イザヤ書はただ民が主を呼んで声を上げたことが記され、主ご自身が憐れみを与えようと望まれたゆえであると伝える。人がどれほど神に逆らったとしても、神の憐れみ深いご性質は変わることがない。私たちが、罪を犯し続けているから神はもう私たちを赦してくださらないと落胆し、立ち帰ることをあきらめる必要はないのである。神はその憐れみのゆえに私たちを顧みてくださる。赦しと憐れみを求める声を上げよう。

2016/3/18(金) 担当 高谷清師  詩編16:7-15  賛美 新聖歌 355
 ダビデは信仰を得たことを6節において「わたしは輝かしい嗣業を受けました」と表現した。信仰を得るということは教理を学び、観念的に主を知ることではなく、神との霊的な命の交わりに生きることである。7節から11節ではこのような信仰によってもたらされる祝福について詩っているのである。ダビデは「主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。」と述べる。贖いの恵みを知らされ、受け入れ、喜びに満たされて歩み始めた信仰者もやがて試練に直面し、挫折の危機に直面することがある。そのような時「主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭して」くださるのである。主の御顔を求めるとき、「主は右にいまし、わたしは揺らぐことが」ないのである。それによって喜びと平安に満たされるのである。更に主は復活によって私たちに永遠の命を得させてくださった。永遠の命の恵みは私たちの喜びと平安と希望を不動のものとするのである。先週、主は敬愛する同労の先生を御許に召された。ご遺族の方々と先生の牧会されていた教会の悲しみは如何ほどと心が痛む。しかし主は恵み深い。慰めと平安と希望に生かしてくださることを祈り、確信する。私たちもいかなる試練に遭遇するとも信仰に在って希望に生きよう。

2016/3/19(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ12:4-7 賛美 新聖歌 311
 主がぺトロに「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(マコ 14:30)と言われたとき、ぺトロは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」(マコ 14:31)と言い張った。しかし主が捕えられ、裁判の場に立たれたとき、大祭司に仕える女中の一人が「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」と言ったとき、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言って打ち消した。再び女中の言葉を否定し、居合わせた人々の言葉に対しても「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。すると鶏が2度目の鳴き、主の言葉が成就した。ぺトロは主の言葉を思い出し、いきなり泣きだしたのである。人間の決心は危機に遭遇するとき、かくも弱いものである。しかしぺトロは本心に立ち返り、悔い改めることによって受け入れられ、恵みに留まることが出来た。私たちもぺトロと同じもろさを持っている。自らの罪を知った時には悔い改めて主に立ち返ろう。主の恵みは豊かである。”,,1052″