2016/3/7-12

2016/3/7 (月) 担当 高谷清師  ?ペテ3:8 賛美 聖歌 157
 最後に求められているのは「謙虚になりなさい」である。主イエスの御生涯には謙遜の極み、であった。パウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリ2:6-9)と述べている。主は父なる神のみ旨に従い、徹頭徹尾自らを低くし、十字架の死をも甘受してくださった。最後まで謙そんの限りを尽くされた主を神ご自身が高くされたのである。私たちは少しでも自らを高くしょうとしのぎを削る存在である。しかし自らを低くする人を神は高くしてくださるのである。

2016/3/8(火) イザヤ書30:1-7 賛美 新聖歌190
 ここにも「災いだ」で始まる裁きの言葉が語られている。北からバビロンがエルサレムを征服しようとして迫ってくるとき、神はバビロンに降伏するように語られた。しかしユダは南のエジプトの軍事援助を得て何とか持ちこたえようと画策する。しかしその謀こそが、神から出たものではない背きの行動であると言われる。そしてエジプトに援助を求めに行くことこそがネゲブの獣が棲息する地に足を踏み入れることであり、エジプトからの助けはむなしいと明言される。すなわち、神の御心に反する援助を画策してもそれはユダを救うことがなく、結局エルサレムは破壊されるという裁きである。そしてこの裁きの言葉は「背く子ら」(30:1)のエルサレムに向けられている。
 逆境にある時、私たちは慌てふためいて自分で解決を探ることだけに心を奪われていないだろうか。いかなる状況においても神の御心を求め、聞き、そしてその御心に従うことが人の目には最善の策に見えなくても、神から出たものであるならばそれに従うことにこそ救いがある。神のご計画を聞き分ける霊性を養いたい。

2016/3/9(水) 担当 高谷清師  ?ペテ3:9  賛美 聖歌 394
 続いてペトロは「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。」と勧める。主イエスもまた「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」(ルカ 6:27-31)と命じておられる。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いることは肉の本性である。2013年にはテレビドラマに関連して「やられたらやりかえす。倍返しだ!」が流行語となった。しかしキリスト者はそうであってはならない。キリスト者は払いきれない罪責を御子の十字架によって赦され、祝福を受け継ぐために召されているからである。

2016/3/10(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書30:8-17 賛美 新聖歌280
 相変わらず神に反逆する民は真実の神からの言葉を語る預言者に対して嫌悪感を抱いており、またそのような王と指導者と民に迎合して偽りの預言を語る者たちがいた。神はこれらを見過ごされることはなく、ユダは突如として崩壊し、壺が粉砕されるように粉々になると言い、ユダは徹底的な裁きを受けると語られる。この最中に7章でアハブ王に語られた言葉が繰り返される。「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある。」(30:15)という一貫したメッセージである。破壊と崩壊が迫るただ中でそこに見出す救いの希望はやはり、ただイスラエルの聖なる方に頼ることなのだ。残念ながらこの警告は聞き入れられない。あくまで心を頑なにし、耳を閉ざす人々は神に立ち帰ることすら忘れてしまう。
 神に背く時に聖なる方である神は裁きを行われる。それでも憐れみ深い神は最後までご自身に立ち帰って信頼するよう呼びかけられる。あらゆるときに私たちは「私に立ち帰り、信頼せよ」と呼びかけられる神の声を聞き分け、応答したい。

2016/3/11(金) 担当 高谷清師  詩編16:1-6  賛美 新聖歌 428
 ダビデは「神よ、守ってください、あなたを避けどころとするわたしを。」と祈った後、「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」と告白する。そして「この地の聖なる人々、わたしの愛する尊い人々に申します。ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。」と言う。エデンの園に在って、善悪の知識の木はエバにとって「いかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」のであった。彼女が神の言葉を棄て、蛇の言葉に従ったとき彼女に苦しみが加わった。「神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」(創 3:6)」と言われているとおりである。それ故ダビデは「わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません。」と言う。そして「主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。」と言い表す。ダビデはサウルによって嗣業を追われた。イスラエルが約束の地に入り嗣業の地が分け与えられた時、レビ人には嗣業の地が与えられなかった。主はアロンに「「あなたはイスラエルの人々の土地のうちに嗣業の土地を持ってはならない。彼らの間にあなたの割り当てはない。わたしが、イスラエルの人々の中であなたの受けるべき割り当てであり、嗣業である。」(民 18:20)と語っておられる。パウロは「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」(フィリ 3: 8)と述べている。主キリスト・イエスのみ名にある祝福を望みつつ、主に従おう。

2016/3/12(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ12:4-7 賛美 新聖歌311
 キリスト者として生きる私たちも、信仰の故に危険に晒されるときがあるかもしれません。そのような時に私たちは、神様はどこにおられるのか、神様は私たちのことを忘れてしまわれたのかと疑問を持ってしまいます。目の前に私たちの命を狙う人がいれば、私たちはその人を恐れますが、彼らは体を殺すことはできてもそのあとそれ以上に何もできないのです。また、私たちには殺した後で地獄に投げ込む権威を持ったお方、神様が共にいてくださるのです。さらにこの方は取るに足りない値段で売られている一羽の雀さえも決して忘れることがないお方で、『恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。』(12:7)と語ってくださるのです。そして私たちの髪の毛までも一本残らず数えておられるほどに私たちを知ってくださり、確かに一人一人の魂と体のすべてを御手によって治め、支配しておられます。故に、死に至るような危険をもって迫る者は確かに恐ろしいのですが、その人々を恐れる必要はないのです。真に畏れるべきお方は神様だけなのです。このお方にしっかりと目を向けて歩み続けましょう。”,,1136″