2016/11/21-26

2016/11/21(月) 担当 高谷清師  ヨハネ 1:1-5  賛美 聖歌 273
ヨハネは「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」と告げる。創世記は天地創造について「神は言われた。「〇〇〇」そのようになった。」と記している。そしてパウロは「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。」(コロ 1:16)と述べている。更にヘブライ人への手紙には「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。」(ヘブ 1:2)と記している。天地万物はイエス・キリストによって成ったのである。更にパウロは「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(?コリ5:17)と述べている。初めに創造されたものは人類の罪によって失われたものとなった。しかし御子を信じる者は、御子の贖いの恵みによって新しく造られ、神の命に生かされる者とされているのである。

2016/11/22(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書55:1-5 賛美 新聖歌267
神が人々を宴会に招いてくださっている。そこでは十分な水や穀物やぶどう酒がふるまわれている。招待客は決して身分の高い人だけではない。飲み物や食べ物を求める人々すべてに分け隔てなく開かれている招きである。さらにそこでの水や飲み物は「良きもの」(55:2)である。これは箴言9:5-6で「わたしのパンを食べ/わたしが調合した酒を飲むがよい 浅はかさを捨て、命を得るために/分別の道を進むために。」と記される招待を思わせる。神が整えてくださる食卓の水はさらには時を経て主イエスが与えてくださる、再び渇くことのない水につながる(ヨハネ4章)。
神からの招待はすべての人に開かれている。富める者から貧しいものまで、また既に神を信じている人々からまだ神を知らない人まで招かれている。ただ主に聞き従い、その招きに与ればよいのである。

2016/11/23(水) 担当 高谷清師  ヨハネ 1:1-5  賛美 新聖歌 395
続いてヨハネは「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」と述べる。この箇所についてR・V・G・タスカー師は「人の知的、霊的な理解力と、意識と良心の源は、この神のことばであった。このように、人の内にある光とその光を発するより大きな「光」には類似性がある。この光によって人は、外の世界を観察することができる。自分が生まれてきた世界についてその意味を省察し、自然界の法則を理解し、その中にある自然の力を利用し、絵画や音楽や文学において表れたその光の輝きを見ることができるのである。さらに人はこの光によって、自分自身の内側を見つめることができる。(ティンデル聖書注解ヨハネの福音書P41いのちのことば社2006/2)」と述べておられる。私たちはイエス・キリストによって自らの罪を自覚し、救いを求めることが出来る。更に今は価値観の混乱した時代であると言われる。イエス・キリストによってのみ、正しい価値観は得られるのである。主が「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハ14:6)と言われた通りである。キリストにあって真理の道を歩もう。

2016/11/24(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書55:6-7 賛美 新聖歌389
神はイスラエルに対して、主を呼び求めて今彼らが行っている悪を捨てて神に立ち返れと言われている。そうすれば神はイスラエルを憐れみ、赦してくださるのである。神は恵み深く、愛に満ちた方であるから、神を捨てた罪人をも赦してくださる。しかし赦しを得るためには、神を呼び、神に立ち返ることが求められている。一方で悪行を続けながら口では神の御名を呼ぶことは簡単だが、そのような人が神を呼ぶ声は虚しい。神を呼ぶ声だけでは不十分である。神に助けと救いを求めるとき、口から出る言葉だけではなく、それに伴って悪を行うことから離れて、悔い改めつつ神のもとに立ち返らなければならない。
主の御名を呼ぶことは決して口先だけのものではない。そこに砕かれた心と、それよって促された神に立ち返るという行動である悔い改めが伴わなければならない。常に神の御言葉に向き合い、神の前に心を向け、悔い改めの心と行動をもって神の名を呼ぶ者となろう。

2016/11/25(金) 担当 高谷清師  詩編28:1-2  賛美 聖歌 556
神に逆らう者、悪を行う者の中に在ってダビデは祈っている。しかし神は沈黙しておられる。ダビデは神に向って「わたしに対して沈黙しないでください。あなたが黙しておられるなら/わたしは墓に下る者とされてしまいます。」と訴える。ヨブは「すべての命あるものは、肉なる人の霊も/御手の内にあることを。」(ヨブ 12:10)と述べており、ダニエルはベルシャツァル王に「天の主に逆らって、その神殿の祭具を持ち出させ、あなた御自身も、貴族も、後宮の女たちも皆、それで飲みながら、金や銀、青銅、鉄、木や石で造った神々、見ることも聞くこともできず、何も知らないその神々を、ほめたたえておられます。だが、あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない。」(ダニ5:23)と語っている。そしてパウロは「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」(コロ3: 3)と述べている。神は私たちの命である。祈りにおいて神と交わり、永遠の命に与るのである。神が沈黙しておられるなら、神との交わりが断たれるなら、私たちは墓に下るほかない。しかし神との断絶と思われるトンネルを経験しながら信仰を持ち続けたヨブに対し、神は語りかけ、祝福を注がれた。信仰生活において祈っても答えを得られず、絶望を味わう時にも信仰を守り通そう。神は必ず答えてくださる。

2016/11/26(土) 担当 高谷由紀子師 マタイ5:13 新聖歌428
マタイによる福音書5:1-7:27には主イエスが山に登り、そこで弟子達に語られた言葉が記されています。これらは山上の説教と呼ばれています。今日の御言葉はそのうちの一節です。ここで主は「あなたがたは地の塩である。」と言われました。キリスト者は地上において塩のような存在であるべきだと教えておられます。塩は私たちの生活においてなくてはならないものです。塩は食材の鮮度を保ち、腐敗を防ぎ、良い味付けをします。また私たちの体にとってそれは不可欠なものです。
クリスチャン一人一人は小さな存在ですが、塩として神に用いられる時、日々の生活を正しくし、人々が有効に働くことができるように助け、社会の腐敗を防止する存在となることができるのです。み言葉の真理に立って歩み、主に用いられる者になりましょう。”,,935″