2016/11/28-12/3

2016/11/28(月) 担当 高谷清師  ヨハネ 1:1-5  賛美 新聖歌 201
 「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」と述べたヨハネは「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」と語る。「暗闇は光を理解しなかった。」と訳されているところを口語訳聖書は「やみはこれに勝たなかった。」と訳している。この箇所について土戸清師は「翻訳聖書では、その特質が見えて来ませんけれども、聖書の原典では「輝いている」と現在形で書いてあるのです。すなわちわたしたちが、〈見る〉〈聞く〉〈触れる〉〈体験する〉ことができる存在として、神が、あるいは神の子、すなわちイエス・キリストにおいて示されている神、あるいは御子としての神、それにわたしたちは〈見る〉〈聞く〉〈触れる〉〈体験する〉ことができる存在として、わたしたちの歴史に関わってくださっているという信仰における確信が、今朝の聖書のテキストに示されている、と理解していいのです」(土戸清『ヨハネ福音書のこころと思想?』P52)と述べておられる。キリスト教の歴史を見るとき、福音を抹殺せんとする迫害は絶え間なく吹きすさんできた。しかし福音の光は絶えることなく輝き続け、求める人はそれに触れ、救われてきた。それは主が再び来り給う日まで変わることはない。

2016/11/29(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書55:8-13 賛美 新聖歌18
 神に背いて裁きを受けて苦しんでいるイスラエルは何度も「悔い改めるならば神が助けてくださる」という素晴らしいメッセージを聞いていた。それにもかかわらず彼らには、捕囚から解放され、救われるなどとは全く考えられなかった。なぜ彼らは神のことばを信じることができなかったのだろうか。それは彼らが目にしていた現実は絶望的で、どう考えても状況が変わるのは不可能だったからだ。しかし神は、神の言葉には力があり、語られた言葉は決して無意味になることはないと言われる。いかに偉大な地上の支配者であっても、自分が語った言葉が決して無駄にならないと断言できる者はいない。イスラエルの神が天地創造の主であり、歴史の支配者であり、全能者であるがゆえに、神の言葉は決して無駄に地に落ちることはない。神こそが約束の保証人である。この神の言葉である聖書の約束は決して無駄になることはない。
 聖書にしるされた救いの約束は信じるに足る言葉である。

2016/11/30(水) 担当 高谷清師  ヨハネ 1:6-8  賛美 新聖歌 373
 ヨハネはここでパプテスマのヨハネについて語る。彼は神から遣わされた人であった。その使命は光、イエスキリストについて証しをするため、そしてそれによってすべての人がキリストを信じるようになるためであった。ヨハネはさらに念を入れて「彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」と述べる。主の証し人は神によって立てられた者でなければならない。その目的はすべての人が信じるようになるため、すべての人が救いに与り、永遠の命を得るためであり、証し者が誉を得るためではない。更に証し者は光ではない。光について証しをするのである。証し者と称しながら、自らを光の位置に置き、自らが光であるようにふるまい、そのように扱うことを要求するものがある。彼らは偽預言者である。ヨハネは「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。」(?ヨハ 4:1)と警告している。

2016/12/1(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書55: 8-13 賛美 新聖歌166
 先日と同じ箇所をもう一度読みたい。神のことばは信じるに足ると述べたが、なぜだろうか。それは語られる神ご自身が本質的に私たち人間とは異なる存在だからである。私たちは「神」を知ろうとするときに理想的な人間、どう頑張っても普通の人が到達できないようなあらゆる面で完璧な人を想像する。人間である限り、私たちは理性的にはそのようにしか神について考えられない。確かに私たちは主イエスの姿に変えられたいと日々願いつつ歩む。それは必要なことである。しかし同時に私たちの努力で完璧に生きればいつか私たちも神になるというものではない。本質的に神は私たちとは異なる存在である。時間や空間に縛られず、神に不可能はない。このことを知る時に初めて私たちは本当の意味で神の力に頼り、主に従うことができる。
 私たちと異なる思いを持ち、私たちと異なる道を持たれる主を示してくださいと祈りつつ、今日の一日も過ごしたい。

2016/12/2(金) 担当 高谷清師  詩編28: 3-5  賛美 聖歌 407
 悪をなす者の中に在って苦悩するダビデは「わたしに対して沈黙しないでください。」と祈った。そして、悪をなす者について「彼らは仲間に向かって平和を口にしますが、心には悪意を抱いています。」と述べる。この箇所について内村鑑三は「詩人は人の頼むべからざるを悟った。味方と思いしものは敵であった。いわく『彼らはその隣人にやわらぎを祈れども、その心にはそこないをいだけり。』人はすべてこれである。その親切は刃を包む袋である。人の親切を信じ.て滅びしもの何ぞ多き。イスカリオテのユダが接吻をもってその主を売りし例は、これをこの罪の世のいたる所に見るのである。」(『内村鑑三聖書注解全集第五巻』P59昭和三十五年十月教文館)と述べている。まことに、主の愛弟子であったユダも愛のしるしである接吻をもって主を裏切ったのである。主は「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(マタ10: 16)と教えておられる。御言葉に立ち、聖霊に満たされ、賢く判断して歩もう。

2016/12/3(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 10:23-29 新聖歌 397
 主は「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」と語り、更に「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と語られた。弟子たちは驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。それに対して主は弟子たちを見つめて「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」と言われた。財産のある者はそれに頼り、神に頼ることをしないため、神の国に入ることが出来ない。しかし聖霊によって目を開かれた時、財産を棄てて神に頼る者となる。パウロは「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」(フィリピ3:8-9a)と述べている。人々が信じるために聖霊が働いてくださるよう、祈り求めよう。”,,979″