2013/12/23-28

2013/12/23(月) 担当 高谷清師 ?コリ3: 3:16-17賛美 新聖歌384

 パウロはコリント教会に対して「あなたがたは、自分が神の神殿であり」と語る。教会は神の霊が住まいなさる故に、神殿である。ペトロはアナニアとサフィラが相計って神の教会を欺いた時、「聖霊を欺いた」と言っている。世には多くのサークルや「会」が存在する。それらは趣味や目的を同じくする者によって形成され、構成員の必要と意見によって運営される。しかし、教会はそれらとは異なる。教会はキリストの体であり、聖霊の宿られるところである。それ故、教会は神のみ言葉に固く立ち、聖霊の導きにしたがって歩むのである。

 
2013/12/17(火)担当 ラウジー満世師 列王記下15:1-31 賛美 新聖歌260・歌460
 15章には北王国イスラエル末期の五人の王が列挙される。これらの王のいずれもがわずかな期間のみを王として治めたこと、また神に喜ばれなかったことが記されている。また、イスラエルの北方ではアッシリアの力が増大し、イスラエルに経済的な服従を強いるだけではなく、実際に国が滅ぼされるという軍事的な脅威も増している。このような悪状況を歴史的に分析すると、さまざまな社会的、経済的、政治的要素がその原因として挙げられるであろう。列王記はこれらの王に対して一貫した評価として彼らが先祖たち同様に主の目に悪とされることを行い、ヤロブアムの罪を踏襲したと記している(15:9, 18, 24, 28)。
 私たちは歴史や人々の行為を評価するとき、さまざまな視点から客観的に観察し、検証し、判断する。その視点は私たちがより正しく、より良く生きるために必要である。さらに覚えておきたいことは一人ひとりが神に造られ、愛されている者として、神に従う歩みを続けることが御心にかなうのだという点である。今日も救いを与えられた者として、神の前に歩もう。
 

2013/12/25 (水) 担当 高谷清師 ?コリ3:16-17賛美 新聖歌369・聖歌545

 続いてパウロは「神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう」と語る。それは「神の神殿は聖なるもの」即ち、神のために聖別されたものだからである。コリントの教会に様々な分派活動があり、互いの間に対立があるのを見てパウロが発した警告である。分派対立は教会を破壊する。日本の伝道の停滞が叫ばれて久しい。これについてある識者は、『戦後日本の教会指導者は「伝道」、「伝道」と掛け声はかけてきたが、その精力の大半を教界の分派争いに費やしてきたのではないか』との趣旨のことを述べておられる。真っ向から否定できないのが悲しい現実である。主も「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない(マタ12:25)」と教えておられる。パウロも「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい(エフェソ4:3)」と勧めている。御霊による一致を追い求めよう。
 
2013/12/26)担当 ラウジー満世師 列王記下15:1-38 賛美 新聖歌274
 15章には北イスラエルだけではなく、南王国ユダについても記されている。最初に記されているアザルヤについては、彼が重い皮膚病であったことを隠さず伝えている。これは汚れとして扱われ、隔離されるべき病であったが、列王記においてはただ王がこの病にかかっていたと伝えるだけであり、王について否定的な評価はなされていない。さらに章の最後に取り上げられるヨタムについても彼の歩みは完全ではなかったが、肯定的な評価を与えている。
 この章を通じて北王国の王についてはヤロブアムの罪を継承したゆえに神に喜ばれなかったこと、また南王国の王については完全に正しい歩みをしたわけではないけれどもダビデの町で先祖と共に葬られたことが書かれている。これを見るとき、どのような状況にあっても常にユダとイスラエルの歴史の舞台で起こっていることの背後に神の支配があることがわかる。今日の私たちの歩みの背後にも、確かに神が居られ、見ておられ、導いておられる。
 

2013/12/27(金) 担当 高谷清師 ?コリ3: 3:18-23賛美 新聖歌316・聖歌500

 この箇所でパウロは「だれも自分を欺いてはなりません」と諭す。パウロは先に「知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか?コリ1:20)」と述べて、世の知恵は神の前では愚かなものであることを明らかにした。自分を欺く者とは、自分は知恵を持つ者であると考え、神に頼らず、自分の判断だけに頼るものである。「神は、知恵のある者たちを、その悪賢さによって捕らえられる」即ち、「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした(?コリ1:21a)」と記されているように、神を見失うのである。本当に知恵のある者となるためには、愚かな者にならなければならない。即ち、自分の判断ではなく、それが不合理だと思うときにも、神の御言に従うこと、シモンのように「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう(ルカ5:5)」と、従うことである。自分を空しくしてただ、御言に従おう。
 
2013/12/28(土)担当 高谷由紀子師 ?テサ5:16-18 賛美 新聖歌398・聖歌584
 初代教会の中でもとりわけ激しい迫害にさらされていたテサロニケの教会に対して送ったパウロの手紙の一部分である。どんな困難の中にあっても、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」とパウロは言うのである。主は十字架にかかり、血を流し、命を捨てて私たちの罪を贖い、信じる者に永遠の命を与えてくださった。この永遠の命は何者も取り去ることはできない。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か(ロマ 8:35)」と言っているとおりである。

 この年も多くの災害があり、困難があった。しかしそのなにものも私たちから救いを奪うことはできない。救い主に感謝し、不動の信仰をもって新しい年に踏み出そう。