2013/12/16-21

2013/12/16(月) 担当 高谷清師 ?コリ3: 3:10-15賛美 新聖歌390・聖歌511

  イエス・キリストという土台はすでに据えられた。それを無視して、誰もほかの土台を据えることはできない。この土台の上に各々が家を建てるのである。土台は一つであっても、その上に建てる家は千差万別である。ある者は金を用いて建て、ある者は銀、ある者は宝石、ある者は木、ある者は草、ある者はわらを用いて建てる。そしてそれは、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するのである。木、草、わらで建てられた家は消失して跡形もなくなり、金、銀、宝石を用いて建てられた家は日の試練に耐えて残るのである。金、銀、宝石、木、草、わら、それは何であろうか。様々な見解も存在するであろうが、ここでは誠実なクリスチャン生活と解したい。パウロはロマ書において「すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります(ロマ 2:7-8)」と述べている。主のみ前に真実をもって歩みたい。
 
2013/12/17(火)担当 ラウジー満世師 列王記下14:1-22 賛美 新聖歌185・歌434 
 ユダの王アマツヤの治世について記されている。彼は正しい王であり、「主の目にかなう正しいことをことごとく行った」(14:3)。6節にはアマツヤが申命記24:16に従って殺害者の子どもたちは殺さなかったこと、つまり具体的に正しい行いを実行した例を挙げて記している。しかしアマツヤは正しい王であったと記されながら、その最期は謀反によって殺される。神の前に正しい歩みをした王であったにもかかわらず、このような生涯の閉じ方をしたアマツヤを見ると、正しく歩むものを主が祝福されるという約束は反故にされているのだろうかと考えてしまう。神の目にかなう王であっても、聖書はアマツヤが傲慢になり、北王国のヨアシュに戦いを挑んだことも正直に伝えている。結局彼は神の目にかなう歩みをしたけれども、完璧ではなかったから、その傲慢さのゆえにこのような結末を迎えることになったのだろうか。
 しばしばみことばを読むときに、機械的に因果関係が適用されるのではない場面に出会う。私たちは「神様、私は良い行い、正しい歩みをしましたから、祝福だけを満たしてください」と当然のように求めることができないことを思い起こす。神は恵み深いお方である。そのことを覚え、ただ神に頼り、信じて今日を歩もう。
 

2013/12/18 (水) 担当 高谷清師 ?コリ3: 3:10-15賛美 新聖歌266・聖歌232

 私たちキリスト者は、日々主の前に家を建てるのであるが、それは、かの日に現れる火によって試みられる。火の試みに耐えて残ったものは報いを受けることができる。報いについて主は「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐマタ 19:28-29)」と語っておられる。またパウロは「あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい?コリ9:24)」と言っている。御国において豊かな報いをいただくことができるように歩もう。
 
2013/12/19)担当 ラウジー満世師 列王記下14:23-29 賛美 新聖歌390・聖歌511 
イスラエルではヤロブアム二世が治めていたころ、国は繁栄していた。領土も分裂以後最大になっていた。今の時代も同じだが、国が経済的に繁栄し、国力が強くなることを人々は求める。そして繁栄に導いた指導者を歓迎し、民はその指導者を高く評価する。しかし列王記はヤロブアム二世に対して大変明確に、「彼は主の目に悪とされることをことごとく行った(14:23)」と記す。ヤロブアム二世に対する神の評価を読むとき、改めて「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サム上16:7)を思い起こす。これはダビデの容姿について言われたことではあるが、人の容姿だけではなく、眼前にある状況についても言えることである。
 多くの人々の賛同を得、経済的に潤うことが成功と見るのは人間の基準である。悪を尽くして、あるいは間違った動機で繁栄を得ても、主の御心にかなうことであるかどうかは別問題である。心を主に向けて、誠実に主に仕えよう。
 

2013/12/20(金) 担当 高谷清師 ?コリ3: 3:10-15賛美 新聖歌359・聖歌453

 自分の建てた家が火の試みに耐え得ず、燃え尽きてしまったものについて「燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」と言われている。その生涯の土台がキリストにおかれているからである。このことから、この箇所がキリストを信じない人々ではなく、信じる人々に語られていることがわかる。ヨハネが「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます(?ヨハ1:7)」と記しているように、御子を信じる者はその流された血によって罪赦され、救われるのである。私たちの歩みが木、草、わらであっても、救いが取り消されることはない。パウロが「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである(?テモ2:13)」と述べているとおりである。しかし、御国において報いを得ることはできない。
 
2013/12/21(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 2:8-20 賛美 聖歌441

 真夜中に野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いのところに天使が現れ、主のご降誕を告げました。羊飼いは、当時の社会にあって最下位の身分として位置づけられ、軽視されていました。人々が寝静まる中で、寒風吹きすさぶ荒野において夜を徹して羊の番をする、辛い仕事に従事していました。主はそのような彼らに真っ先に救い主のご降誕を告げ知らされたのです。聖霊による、御子の懐妊を告げられたマリアも「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう(ルカ1:47-48)」と、神を讃えています。主なる神は、御前に敬虔に歩む、世から軽んじられた者、虐たげられた者をも顧みられるお方です。