2012/7/30-8/4

 

2012/07/30(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙7:18-19   賛美 聖歌355
 「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」という宣言はアロン系祭司を任命する律法の廃止を宣告する。犠牲儀式や祭司の奉仕は印象的な荘厳さを伴ってはいたが、それらによっては良心の平安は与えられず,直接神に近づくこともできなかったのである。もちろん、旧約の聖徒たちも救いの喜びや神の臨在の喜びを体験した(詩32、73:28等)。しかしそれはレピ的儀式やアロン系祭司職によったのではなかった。パウロは「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです(ロマ 3:20)」と述べている。それ故著者は「以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました」と宣言する。そして「他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです」と語る。このことに関しパウロは「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません(ロマ 3:21-22)」と述べている。キリストによって啓示された神の義こそわたしたちの救いの唯一の希望であり、神に近づくことのできる唯一の道である。
 

 

2012/7/31(火)担当 高谷満世師 サムエル記下1:1-27 賛美 聖歌520
 ダビデの下にアマレク人によってサウルとヨナタンの死が伝えられた。この男が語るサウル王の最期はサムエル記上31章のものとは食い違っている。このアマレクの男が明らかにダビデのもとへと持ち帰った宝によってやがて王となるであろうダビデから利得を得ようとしていたことは明らかである。
 ダビデはこのよこしまな男に対して明確な態度をとっている。それはダビデ自身が一貫して守ってきた油注がれた方に手をかけてはなららないということに関するものであった。ダビデは自分がサウルを殺したと主張するこの男を打ち殺した。それほど神の油注ぎは重大なものであった。同時に、ダビデが自分にとっての利益によって動く人ではなかったということが明確にされる。ダビデは、サウルは自分の命を狙う恐ろしい相手だからいないほうが良いとか、サウルの死によって自分に王位が与えられるかもしれないという自分の利得によってこの男の扱い方を変えたりはしなかった。
 自分の状況に有利に動こうとするのは神を畏れるものの姿ではない。ダビデのように常に主に目を留め、主を中心にして何が主に喜ばれるのかを考えて生きるときに本当の意味で主と共に歩める。
 

 

2012/08/01 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 7:20-22 賛美 聖歌265
 ここから著者は新しい祭司職の卓越性について述べる。その第一は、レビの系統の祭司たちは「次に、祭司としてわたしに仕えさせるために、イスラエルの人々の中から、兄弟アロンとその子ら、すなわち、ナダブ、アビフ、エルアザルとイタマルを、アロンと共にあなたの近くに置きなさい(出 28:1)」と言われているように、神のモーセに対する命令に基づいて祭司と祭司になったのである。しかしイエスは『主は誓い、思い返されることはない。「わたしの言葉に従って/あなたはとこしえの祭司/メルキゼデク(わたしの正しい王)(詩 110:4)』と記されているように、誓いによって祭司になっておられることである。神の言葉はそれだけで確かなものであるが、誓いはその確実性をさらに強調しているのである。わたしたちの主は確かな大祭司である。
 

 

2012/08/02(木)担当 高谷満世師 サムエル記上2:1-7 賛美 聖歌589
 サウルが死んでから、ダビデはまずヘブロンへ向かった。ここでもダビデは自分の意志に頼って行動はしなかった。ダビデは自分の思うままの手段によって王位を主張したのではなかった。ダビデはまず神に託宣を求めた。そして神の言葉に従ってヘブロンのまちまちに住んだ。そしてそこで彼は油注がれて正式にユダの王となった。さらに、それだけにとどまらず、ギレアドの住民に語りかけた。このダビデの姿を見るときに、私たちは決して自分達が思うままに行動すべきではないことが分かる。ダビデはまず主に尋ね求めている。私たちはどれほど忠実に神の御心を聞き、従がっているだろうか。
 主の御言葉に従い、主に仕える時に私たちの道を主が開いてくださる。
 

 

2011/08/03(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙7:23-25    賛美 聖歌435
新しい祭司職の卓越性の第二は永遠性故のものである。レビの系統の祭司たちの場合には、もちろんそれは世襲的に任命されたのではあったが、死と云うものがあるため、誰一人永遠に祭司の位にいることはできなかった。しかしイエスは永遠のお方であるゆえ、その祭司職もまた永遠である。またイエスは常に生きていてわたしたちのために執り成しをしていてくださる。そして、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになるのである。キリストはご自身の人格の中に神性と人性を完全に結合させておられるお方だからである。キリストにおいて神が人間に近づかれると同時に、人々も神に近づき得るのである。
   神であり人であるお方が御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださり、よみがえって神の右の座につき、わたしたちのために執り成していてくださるのである。それ故、このお方を通して神に近づくなら、完全に救いにあずかることができる。
 

 

2012/08/04(土)高谷由紀子師マタイよる福音書20:20-28 賛美 聖歌296
 ゼベダイの息子たちの母が主のもとにやって来て「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」と願った。これを聞いたほかの十人の者たちは、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」と言われた。
 世においては人は常に偉いもの、人の上に立ち、人を支配するものになりたがっている。しかし御国の原則は、主がそうされたように、互いに仕え会うことである。