2021/5/3-8

 2021/5/3(月) 担当 高谷清師 コロ 1:21-22 賛美 新聖歌 358

 パウロはコロサイの聖徒たちの以前の状態について「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。」と語る。そして現在の状態について「しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。」と語る。エフェソ書においては「わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。」(エフェ 2:3)と語り、更に「そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」(エフェ2:12)と語っている。

以前、神を知らなかった時の私たちはこの世に在って何の希望もなく、死に向って歩むものであった。しかし、今は一方的な神の憐れみによって救われ、永遠の希望に入れられている。人は恵みに慣れるとそれを当然のことと思い、感謝の心を忘れがちである。イザヤは「わたしに聞け、正しさを求める人/主を尋ね求める人よ。あなたたちが切り出されてきた元の岩/掘り出された岩穴に目を注げ。」(イザ 51:1)と述べている。救われたあの日の喜びと感動を想い起し、感謝に生きよう。

 

2021/5/4(火) 担当 ラウジー満世師 ハバクク書3:5-7 賛美 新聖歌354

 神が顕れるときの様子が引き続き描かれている。人間には治すことのできない病に対しても神は力を示される。また、揺り動かされることのない大地でさえも神は容易く計測し、砕くことがおできになる。私たちの目から見ると、将来にわたって限りなく同じ姿をとどめて大地に存在し続ける山々でさえ神は力をもって砕き、その姿を変えることができる。神の力はすべてのものを変えるほど大きい。すべてがこのように移り変わる中、永遠に変わらないものがある。それは主の道である。主のご計画であり、主ご自身である。ハバククは敵に責められ、苦しむ民を見ながら、生活のあらゆる側面が翻弄され、刻々と変化する不安定さを見ていた。しかしその真ん中にあって揺らぐことなく、変わることのない神がおられるのである。

 今の時代にも「確かだ」と人々が考えていたものが、かつて存在しなかったウイルスによって一瞬にして覆されることを、私たちは体験している。あらゆるものが移り変わる世界にあって、神は変わることがない。

 

2021/5/5(水) 担当 高谷清師 コロ 1:21-22 賛美 新聖歌 225

 パウロは「神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。」と語る。コリントの信徒への手紙?においては「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、」(?コリ 15:3)と述べている。

 私たちの救い、罪の赦しは唯、御子イエスキリストが十字架において流された血と捨てられた命によるのである。この出来事は歴史において現実に生起した事実であって人間の思索の産物や創作ではない。善意からであれ、悪意からであれ、この事実を否定する者は恵みに与ることはできない。ヨハネは「また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」(黙 22:19)と述べている。

 

2021/5/6(木)担当 ラウジー満世師 ハバクク書3:8-11 賛美 新聖歌427

 ここまでは南から来られる神を客観的に描いていたが、8節からは神に直接言葉をかけている。圧倒的な威光と力をもって顕れた神はなぜそうなさったのか、ハバククはまだ確信していない。大地を震えさせるほどの力をもって主が来られたのは、神の怒りを全地に向けるためなのか、あるいは神の民の苦しみを見て、彼らを救うためなのかも分からない。そのような中でハバククはなおも神に対して直接、神が来られた理由を問うことが許されている。そして彼は勇気をもって問いかけた。

 圧倒的な神の力の現れを見るとき、人は恐れおののく。ただ地にひれ伏すのみである。その時にも、神は真実と謙遜をもって神に問いかけることを良しとしてくださる。「何のためにあなたはここに顕れられたのですか?」と。私たちの神は常に私たちと対話をしてくださる。神の御業と臨在が理解できないときに、恐れずに神に問いかけることを許してくださる。

 

2021/5/7(金) 担当 高谷清師 詩  62:2-3  賛美 新聖歌 427

 この詩についてA. ヴァイザーは「この詩の作者は窮地におち入っている。昔からの友人たちに棄てられ迫害されて、自分の状況に気づき、彼らに対して自分がまるで「傾いた石垣」や「今にも倒れそうな壁」のように思われる。うわベはたしかに親しげにふるまうが、心の中は偽りと憎しみに満たされて生命を狙う敵の攻撃のために、消粍し切ってしまい、その重圧の危険に瀕している。詩人はこの苦しみが容易でないことを決して隠していないが、そのさ中に彼の信仰告白があがるのである。「わが魂はただ神に向かってもだす」。この祈りからの苦闘でもってかち得た信仰告白は、詩篇における純粋な祈りの姿勢に関するもっとも美しい証言の一つである。彼の視線は人の悩みと憂いをうしろに押しやって、まったく神に集中している。祈り手は、自分にとって助けであり、岩また城であるひとりの方だけを見ている。彼の魂の中は静かになる。彼は不安と恐れの中に高まる動揺から脱し、足は再び堅い地盤の上に立つので、もはやよろめくことはない。詩篇四二、四三篇と同じように、この詩もまた絶望と神信頼の聞の苦闘にゆすぶられている。ただし、ここでしっかりと全体のかなめとなっているのは信頼である。そして詩人はそこから苦闘に対して心の勝利を得ている。彼は魂の平静を得るばかりでなく、人生においてただ一つ信頼できる正しい規準と、確実な判断をものにする。その結果、彼は信仰共同体の他の仲間に対しても、自分の体験にもとついて助言し、助けを与える指導者となる。」『ATD旧約聖書註解詩篇中P134-135ATDNTD聖書註解刊行会1985)と述べている。 イザヤもまた「人間に頼るのをやめよ/鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか。」(イザ 2:22)と述べている。信頼すべきお方は神様だけである。

 

2021/5/8(土) 担当 高谷清師 コロ 1:21-22 賛美 新聖歌 359

 コロサイの聖徒たちの、救いに与る以前の状態と、恵みによって救いに与った現在の状態について語ってきたパウロは「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」と語る。イエスは「石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。(マタイ13:20-22)と教えておられる。

 空中の権を持つ君サタンの支配する世に在って、人が真実に神に従おうとするとき、艱難や迫害は避けられない。殊に、異教の地日本においては、それは強くなる。そのような中に在っても最後まで主に従おう。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタ 24:13)からである。