2014/2/17-22

2014/2/17(月) 担当 高谷清師 ?コリ4: 14-15賛美 新聖歌222

 ここまでパウロはコリント人に対して厳しい言葉を語ってきた。ここまでのパウロの厳しい言葉を聞いてきたコリント人の中には、パウロの言葉に反発を覚え、パウロから離反しょうと考えた者も少なくなかったかも知れない。しかしパウロはこの厳しい言葉を語ったのは、彼らに「恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです」と語る。
 この箇所を読むとき、中学生時代時代の一人の恩師を思い起こす。この師は普段は優しい師であったが、生徒が間違った行いをすると厳しく叱られた。時には体罰を加えることもあった。(今から60年も前のことである)。それに対して我々生徒は反発を覚えることもあった。しかし、厳しく叱っておられる師の目を見てそこに涙があふれているのを発見した時、その反発は消え、従順に師の戒めを受け入れることが出来たのである。
 この問題は今日においてもいろいろなところで起こっている。その解決は私心なき愛―十字架の愛―による戒めと十全なるコミュニケーションによる信頼関係の醸成によってのみ、可能なのではあるまいか。互いに十字架の愛を知り、満たされ、それによって歩むことが大切である。
 
2014/2/18 (火) 担当 ラウジー満世師 列王記下21:19-26 賛美 新聖歌366
 マナセに代わって王となったのはその子アモンであった。彼もまた、父マナセ同様に罪を犯した。偶像礼拝を行い、主に背き続けた。マナセの時代に神はすでに「エルサレムとユダに災いをもたらす」(21:12)と言われていたとおり、アモンの罪もまた見過ごされることはなかった。この時代に彼の家臣が謀反を起こし、アモンは殺害された。ダビデの時代から約束され、継承されてきた王家はどうなるのかと危ぶまれたが、今度は国の民が立ち上がり、謀反を起こした家臣たちが一掃され、アモン子のヨシヤが王として立てられた。
 結果的には、甚だしく罪を重ねたアモンは取り除かれたが、同時にダビデの家は継承された。ここに、神に背いて罪を犯し、神を怒らせた者に対する厳格な裁きが行われ、なおかつ神の約束が守られていくことが見られる。神はあらゆる状況において真実である。
 

2014/2/19 (水) 担当 高谷清師 ?コリ4:14-16賛美 新聖歌361

 パウロは「そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい」と勧める。パウロが去って以降、指導者としてコリント教会にかかわった人々は大勢いた。その中には私心なくコリント人の救いと神の栄光のために仕えた人たちも多かったが、欲心により、福音に換えてこの世の知恵を語り、自己の栄誉を求めて人心を自分に結び付け、教会を腐敗へと導いた者も少なくなかった。しかし、最初にコリントに福音を伝え、コリント教会の礎を据えたのはパウロであった。だからパウロは「わたしに倣う者になりなさい」と勧めるのである。
 キリスト教界の流れを見ていると、実に様々な流れが起こってくる。ある流れは人々にもてはやされ、瞬く間に世界を席巻する。ある流れは心ある人々にしか受け入れられない。勢いある流れが神に源を発するものとは限らない。主の前に立ったエリヤに語りかけた主の言葉は、山を裂き、岩を砕く非常に激しい風の中にはなく、風の後に起こった地震の中にもなく、地震の後に起こった火の中にもなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえたのである。御霊による知恵によって真理を見分け、歩もう。
 
2014/2/20 (木) 担当 ラウジー満世師 列王記下22:1-13 賛美 新聖歌291
 マナセ、アモンについでヨシヤが王となった。ヨシヤ王のことを良い王、正しい王として記憶している人は多いだろう。列王記もヨシヤについて「父祖ダビデの道をそのまま歩み、右にも左にもそれなかった。」と評価している。彼の治世にどこからか律法の書が発見されたところから具体的な改革が始まっていくが、それ以前からヨシヤは神殿の修理を命じているように、信仰深い王であった。
 ある日、書記官シャファンと祭司ヒルキヤの手を通じてついにヨシヤの手に律法の書が届いた。この書を通してヨシヤは先祖が神の言葉を無視してきたこと、その結果主の怒りがヨシヤの時代に対して燃え上がっていることを知った。ヨシヤの目は発見された神の律法、すなわち御言葉によって開かれた。それ以前にも信仰深い王であったが、まさに神の言葉を読んだときにヨシヤは実際にユダが神の前に罪を追う存在として立たされていることを知った。そしてそこで立ち止まるのではなく、解決に向けてまず主に御旨を尋ねることからはじめている。
 私たちは御言葉を読み、主に喜ばれる歩みを学んでいるだろうか。神の御旨を求め、実行しているだろうか。
 
2014/2/21(金) 担当 高谷清師 ?コリ4:11−13  賛美 新聖歌423
 パウロは伝え聞いたコリント教会の状態が尋常ならざるものであることを察知し、愛弟子テモテを派遣した。彼を送り出した後、この書簡を認めたとみられている。パウロは自分が遣わしたテモテについて、「愛する子」で「主において忠実な者」であると言っている。パウロがテモテを「愛する子」と言っていることによって、パウロとテモテが大変親しい関係にあり、テモテがパウロをよく理解していたことを示している。また、「主において忠実な者」と呼んでいることによって、キリスト・イエスに結ばれたパウロの生き方をコリント人に体現できるものであったことを示している。
 死からよみがえられた主は、私たちを「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と語って後、天に帰って行かれた。私たちは福音を宣べ伝えるために主によって遣わされたものである。そこには深く主を知ることと、主に忠実であることが求められる。絶えずみ言葉を学び、祈り、主を証ししよう。
 

2014/2/22(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 12:1-12賛美 新聖歌559

 ここではイスラエルがぶどう園にたとえられている。ぶどう園の主人はこれを農夫たちに貸し、管理のために必要な権威を彼らに委ねた。しかしその実りは主人のものであった。ぶどう園は実を実らせ収穫の時を迎えた。その時、農夫たちは実りを自分たちのものにしようとして主人から遣わされた者を殺した。これは神の国の管理を委ねられた宗教指導者たちが神から送られた預言者たちを拒んだことと同様である。
 そしてこの宗教指導者は預言者だけではなく、ついに神の愛する独り子である御子を拒んだ。神に仕えるべき指導者たちが神から権威を奪い取り神の民を苦しめた。しかしこのような状況においても神の救いのご計画は揺らぐことはない。神は指導者たちに捨てられた主を隅の親石とされた。

 私たちは救いを伝えるという働きのために必要な権威を委ねられている。これを私欲のために用いるのではなく、神の御心に沿って用い、救いを宣べ伝えるべきである。