2015/3/13-18

2015/3/16 (月) 担当 高谷清師  ?コリ14:37-40  賛美 新聖歌 407
 コリント教会においては霊の働きが活発であり、多くの預言をする者や霊の人―異言を語る者―がいた。彼らの内には真に神からの霊によってそのように立てられた者もいたが、他方、自分勝手にそのように思い込んでいる者もいた。そのために多くの混乱を招いていたのである。パウロはこの章において、秩序について述べた。そして使徒の権威に立って「わたしがここに書いてきたことは主の命令であると認めなさい」と命じるのである。今日も「預言の賜物を持つ」とか「わたしは聖霊によって示された」と主張する人々が現れる。そのような人々はしばしば誰の言葉も聞き入れず混乱を引き起こすのである。しかしそれらは聖書によって検証されるべきである。神のことばは聖書において完結しているからである。今日聖霊によって与えられる預言や黙示は聖書の説き明かしである。聖書に反するものは悪霊によるのである。しっかりと検証し、揺るがぬ信仰に立とう。

2015/3/17(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下27:1-9  賛美 新聖歌361  
 これまでの何代かの王を見てきて落胆している。どの王も最初は神に忠実であり、祝福を受けた。しかし残念ながら、皆途中で神に対して不忠実になってしまった。しかしここで遂に神に従い通した王の姿を見ることができる。残念なことにはヨタムの忠実な信仰は民にまでは浸透しなかったが、ヨタム自身は生涯神に従い通した。ヨタムは神に従う者にふさわしく、神殿の門を修復した。この信仰深い王に対して神は彼の治世の間にはアンモンの王との戦いにおいて勝利を与え、豊かに祝福された。また主の目にかなう王にふさわしくダビデの町に埋葬された。
 何人もの王の姿に見たように、生涯を通して神に従い続けることは容易ではない。救われて喜びに浸っているときや祝福を受けて喜んでいるときだけの忠実さではなく、人生のあらゆる局面を通して神を第一とする信仰を保たなければならない。まれにみる正しい王、ヨタムの姿は、生涯神に忠実であることが人間には可能であることを思い起こさせてくれる。励ましてくださる聖霊と共に今日も歩もう。

2015/3/18(水) 担当 高谷清師  ?コリ14:37-40  賛美 新聖歌 361
 続いてパウロは「それを認めない者は、その人もまた認められないでしょう」と語る。主イエスは「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる(ルカ9:26)」と語っておられる。またヨハネは「だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか(?ヨハ5:5)」と述べている。もし御言葉を否定する者があるなら、その人は神によって否定されることを知るべきである。御言葉に立つ信仰によって歩もう。

2015/3/19(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下28:1-8  賛美 新聖歌266
 ユダの王アハズについては、列王記やイザヤ書などからよく知られている。この時代にユダは外交関係で難しい立場にあった。パレスチナの北西ではアッシリアが力をつけて侵攻しようとこのパレスチナを狙っていた。アッシリアに対抗しようとしてユダの北に隣接するイスラエルとアラムとは同盟を結び(西方同盟)、ユダをも引き込もうとした。歴代誌はこの時代をユダにとって、列王記やイザヤ書の記述より厳しいものとして描く。四方八方から攻められ、大きな損害を被ったと記されている。
 なぜこのようなことになったのか。歴代誌での答えはここでもはっきりしている。アハズは主の目にかなう正しいことを行わなかったのである。正しい礼拝を捨て、異教の像を作り、人身までいけにえとしてささげたのである。心が主から離れるとき、正しい礼拝が失われ、神との関係が崩壊する。私たちの心は主に正しくつながっているだろうか。

2015/3/20(金) 担当 高谷清師  ?コリ14:37-40  賛美 新聖歌 425
 パウロは最後に「わたしの兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。そして、異言を語ることを禁じてはなりません。しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい」と勧める。神が教会に与えてくださった賜物はすべて尊く教会にとって祝福に満ちた、欠かすことのできないものである。それ故、熱心に求めるべきであり、またその行使を禁じてはならない。しかしこれらは適切に、秩序正しく行うべきである。何故なら「神は無秩序の神ではなく、平和の神だから(?コリ14:33a)」である。それによって教会が霊的に成長し、世が神を認めるようになる為に。

2015/3/21(土) 担当 高谷由紀子師 Iテサロニケ3:13  賛美 新聖歌369
 この言葉はパウロがテサロニケ教会の人々のために神様に祈った祈りです。パウロの宣教によってテサロニケの人々は福音を信じましたが、パウロが去った後、信仰を守っていくことが困難になる苦難にあいました(3:1-4)。パウロは容易にテサロニケに行くことができない状況において、まず彼らが強い心の人となるようにと願いました。人の心は変わりやすく誘惑に負けやすいものです。信仰を保ち続けることができる心の強い人になるように願いました。そして人に対して憎しみ、ねたみ、悪意を持たない純真な、愛の心の持ち主になるようにと求めました。これらのことはすべて神様の御前にあって、聖霊の助けによって得られるものです。
 信仰に導いてくれた人が近くにいるから信仰を持ち続けることができるのではなく、聖霊の助けによって信仰を強められるのです。”,,1095″