2015/3/23-28

2015/3/23 (月) 担当 高谷清師  ルカ 23:32-43  賛美 新聖歌 359
 コリントの信徒への手紙一を共に読んできて今週からは15章―復活の章に入るところである。来週は受難を記念する礼拝、その次は復活の喜びを分かち合うイースター礼拝である。そこで今週は十字架上のイエス様のみ言葉に耳を傾けたい。人々がイエスを十字架につけた時イエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と言われた。罪人を愛し通されたイエスの心が受け入れられず、十字架につけられたイエス様の無念さ(人間的な言い方ではあるが・・・)、肉体の痛みの中で発せられたとりなしの祈りである。彼ら―イエスを十字架に架けた人々―とは誰か、あざ笑う議員たち、兵士たち、「十字架につけろ」と叫んだ民衆、ユダヤ人と異邦人、かつての私たち、人類すべてであり、私自身である。このような者の為に主は十字架の苦しみを受け入れ、命を捨て、執り成してくださるくださり、その恵みによって今の私たちがある。どんなに感謝をささげても、感謝を満たすことが出来ない大いなる恵みである。

2015/3/17(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下28:9-15  賛美 新聖歌343  
 アラムと共にアハズ王の時代に南王国を打ち勝利を得た北王国は戦いにおいて膨大な数のユダの兵士たちを殺しただけではなく、さらに多くの捕虜を連れ帰った。確かにこれは主が南王国のアハズ王に対して怒られた結果であった。しかし神がユダに対して怒っておられるということは北王国の行き過ぎた残虐な罪の行いを正当化する理由にはなり得なかった。預言者オデドを通じてイスラエルは警告を受ける。驚いたことにその時北王国はその警告を受け入れて捕虜たちへの待遇を改善し、最終的には解放したのである。
 この時、偶像礼拝を犯し続けて来たイスラエルは神の警告を聞き入れた。しかし、このことは北王国が偶像礼拝を悔い改めて神に立ち帰るまでには至らなかった。神に背くものであっても迫り来る裁きを恐れて自己を守るために正しい行動をとることはできる。しかし必ずしもそれが心からの悔い改めに通じないこともある。行動の変化が本当の悔い改めによるものであるか、否か、今日も私たちは注意深く見極め、一人一人が真の悔い改めに導かれるよう祈らなければならない。

2015/3/25(水) 担当 高谷清師  ルカ 23:32-43  賛美 新聖歌 235
 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に十字架に付けられた。この二人についてマタイは「強盗」と記している。そのうちの一人が「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」と言い、更にイエスに向かって「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったことが記されている。これに対してイエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。犯罪人とは犯した人である。そして罪を犯した者は刑罰を受けなければならない。聖書は「すべての人は罪を犯した(ロマ3:23)」と述べ、更に「罪の支払う報酬は死である(ロマ6:23)」と述べている。そしてヨハネは「しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである(?ヨハ1:7)」と述べている。イエスが十字架に付かれたのは私たちの罪を赦すためであり、イエスを救い主と信じる者には、その信仰によってすべての罪の赦しが与えられるのである。罪赦された恵みを感謝し、救い主を心から賛美しょう。

2015/3/26(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下28:16-27  賛美 新聖歌396  
 北王国への捕虜が、背後に働く神の業によって奇跡的に帰還を許された。しかしこれはユダの罪が赦されたというしるしではなかった。アハズ王は相変わらず神に背き、重ねて異国と偶像に頼り続けた。四方八方の国々から攻められる中でもアハズは神には全く頼らなかった。むしろ、自国を打ち破った国の偶像に頼るという愚かな選択をした。偶像礼拝を重ね、限りなく罪を犯し続けていった。神に背き続ける者に希望は皆無である。アハズの父ヨタムは主の目にかなうことを行い、恵みを受けた人物であったが、その父親の忠実な信仰も、アハズ王自身が神に背き続けた罪の結果を免れるための理由にはなり得なかった。アハズは自分自身が罪の結果を背負わなければならなかったのである。
 親が正しい道を選んだとしても、それは神に背く子への神の裁きを回避する理由にはならない。他の人が神の前にどのように生きたかにかかわらず、人は自分自身が神に対してどのように生きるかということが問われるのである。今日、私たちはどのような歩みを選んでいくのだろうか。

2015/3/27(金) 担当 高谷清師  ヨハ 19:25-30  賛美 新聖歌 445
 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立ってイエスの十字架を見守っていたことが記されている。イエスは地上における生涯の最後の時を迎えるに際し『イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われ、愛弟子に「見なさい。あなたの母です。」と言って、母を愛弟子に託されにたことが記されている。そして、これに従いこの弟子はイエスの母を自分の家に引き取ったのである。この箇所からイエスの母がユダヤ人教会を象徴し、愛弟子は異邦人教会を象徴すると解釈し、愛弟子がイエスの母を引き取ることによって地上における教会の一体性の小著であるとする解釈は今日も広く行なわれる。しかし本稿では別の面から見てみたい。主イエスはご自分が地上を去るにあたって息子としての社会的、道義的責務を投げ捨てず、愛弟子に託すことによって全うされたのである。
 「あなたは世から選ばれ、召し出されたのだから世と分離しなさい」と教え、社会的、道義的責任を放棄させて来たのが従来の日本の教会の姿ではなかろうか。これは教会にとって短絡的には非常に都合のよい教えであった。しかしこれは社会の不信を招き、今日の伝道の困難、教会の凋落を招いている原因である。特に地方においてそうである。主に贖い出された者は主イエスの模範に従い、社会的、道義的責務をしっかり受け止め、全うしていく者でありたい。

2015/3/28(土) 担当 高谷由紀子師 ?ペテ1:22-25  賛美 新聖歌316
 春になってあちらこちらで色鮮やかな美しい花が咲き誇っています。しかしこの美しさもしばしのもの、やがて萎れ、枯れて行きます。この自然の移り変わりを見ながら、私たちは聖書のみ言葉に思いをよせます。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」
 私たちは罪と咎によって死んでいた者でしたが、キリストの尊い贖いの恵みによって朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。この尊い、永遠に変わることのない、神による命を与えられていることを感謝しつつ、日々前進しましょう。”,,1085″