2016/10/24-29

2016/10/24(月) 担当 高谷清師  ?ペテ5:9  賛美 新聖歌 316
 「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」と語ったぺトロは「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」と勧める。そしてこの苦しみは世に在るすべての聖徒が直面するものであることを示している。この問題についてパウロは「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(エフェ 6:10-11)と述べ、「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェ 6:14-18)と述べている。神の武具を身につけ、勝利のクリスチャン生涯を全うしょう。

2016/10/25(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書51: 17-23 賛美 新聖歌385
 「主の手から憤りの杯を飲み よろめかす大杯を飲み干した都よ。(51:17)」と呼びかけられるエルサレムが経験した悲惨な状況が20節までに記されている。エルサレムは孤独であった。苦しみの中で方向を失っているエルサレムを導く者はおらず、次から次へと災いが襲いかかり、人々は力尽きている。これらの苦しみはほかならぬ主ご自身から与えられたものであるがゆえに、逃げ場はない。暗い雰囲気で始まるこの箇所は21節の再度の呼びかけから一転する。この災いを与えられた主ご自身が杯を彼らの手から取り去ると宣言される。民の罪ゆえに災いを与えられた主ご自身が憐れみをもってその杯を取り去ってくださる。どれほど罪を犯す民であっても神の愛は尽きることがない。民が裁きを受けたならば再び民を赦し、守ってくださる。
 民の状況がどうであろうと、どれほど神に背いても、神は民を愛し続けておられる。尽きることのない神の愛に感謝しつつ、しかしその愛に甘えることなく、その愛を利用することなく、神に愛されているものとして誠実に生きよう。

2016/10/26 (水) 担当 高谷清師  ?ペテ5:10 賛美 聖歌 339
 サタンの支配下にある世に生きるキリスト者に「身を慎んで目を覚ましていなさい。」「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」と語ったぺトロは「あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。」と語る。今、世を支配しているのはサタンであるが、その支配は永遠に続くものではない。やがてサタンの支配は終わりをつげ、私たちを救いに招き入れてくださった、あらゆる恵みの源である神が、私たちを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださるのである。パウロは「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(?コリ4:17-18)と述べている。「あらゆる恵みの源である神」を仰ぎ見、しばらくの苦難に勝利しょう。

2016/10/27(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書52:1-6 賛美 新聖歌342
 神の裁きを受けて弱りはて、孤独なエルサレムに対する救いの約束の言葉が続けて語られている。エルサレムが苦しみを経験し、破壊されたのは神ご自身のエルサレムの罪に対する憤りによって与えられた裁きであった。裁きを与えられた同じ神が、あの悲惨な経験は再び起こることはないと言われる。神が買い戻される、すなわち贖われるのである。
 災いによって打ちのめされ、疲弊するときに人はその中から自分だけの力で立ち上がることはできない。たとえその悲惨な状況が神に背いたゆえに与えられた罰であったとしても、そこから回復する鍵はただ神の赦しと憐れみと贖いによる他はない。神は人と罪によってどれほど怒られたとしても、なおその人を愛し、回復してくださる。もし私たちが罪を犯したとしても、そのことに気付いたならば神に立ち帰り赦しを求めよう。憐れみ深い神は真実にへりくだったものを憐れんでくださる。

2016/10/28(金) 担当 高谷清師  詩編27:7-8  賛美 新聖歌284
 この詩の後半は前半とは違って、試練の中に在って詠われた歌である。詩人は「主よ、呼び求めるわたしの声を聞き/憐れんで、わたしに答えてください。」と願い、「わたしの顔を尋ね求めよ」と語られた御言葉に立って「主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。」と告白する。自らの罪の故にバビロン捕囚という神の裁きに服しているイスラエルに対し神は、エレミヤによって「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。」(エレ29:12-14)と語っておられる。
毎年「祈りのサミット」という集会が持たれています。その集会の案内に『この会は「祈りの課題に基づいて祈り合う会」でなく、「主との祈りの交わり」会です。言い換えれば「御手を求める」会(神に願い事を持って行く会)でなく、「御顔を求める」会(神の臨在の中に浸り、神に留まり、神をひたすら礼拝する会)です』と記されています。「主のみ顔を求めることこそ、いま必要とされていることである。

2016/10/29(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ9:57-62  新聖歌404
 主は群集に話し終わった時、シモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。漁師たちは夜を徹して漁をしたが何もとれず、疲労困憊し、諦めていました。シモンたちは漁の専門家であり漁については知り尽くしていました。心の中では主イエスと言えどもこの道については経験豊富な自分たちの方が上だと思っていたかもしれません。しかしシモンは「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答え、そのとおりにするとおびただしい魚がかかり、網が破れそうになりました。人間の限られた知恵、力、経験等に頼らず、主の言葉に信頼し、従うことが大切です。”,,953″