2020/12/7-12
- 2020.12.07
- ディボーションの友
2020/12/7(月) 担当 高谷清師 ヨハ 21:3-6 賛美 新聖歌 302
エルサレムで復活のイエスにお会いして「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」との命令を与えられた弟子たちは、時を得たと信じて(当時、夜は漁に適した時であった)ぺトロの主導のもとに宣教の働きに出かけた。彼らは全力を注いでその働きに当たった。しかし、何の成果もなく、その日の働きの終了の時(夜明け)を迎えようとしていた。その時、弟子たちは岸辺に立つ一人の人影を見た。そのお方が弟子たちに「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。そのお方は「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」と言われた。弟子たちがその言葉に従って、そのとおりに網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。私たちの宣教の働きは、常に神のみ声に耳を傾け、神のみ声に従って進めよう。
2020/12/8(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書5:6-8 賛美 新聖歌428
主が与えられる子を通してイスラエルが勝利を得て平和が打ち立てられると語られた後にヤコブの残りの者について述べている。大変な時代を通り抜けて最終的に語られるヤコブの残りの民は、これまでミカの預言の中で語られてきた民の姿とは全く異なる者たちである。彼らは家畜の草を育てるために貴重な水分である露のように大切な存在である。彼らは何に望みを置き、頼りとするのか。それは決して目に見える人間の武力や権力ではない。人間ではなく、神に望みを置き、神に頼る。これは神がイスラエルに求め続けてこられたものである。ユダとイスラエルの王たちに神は他の国々という人間の権力ではなく、神に頼れと語り続けてこられた。また偶像礼拝にふけるイスラエルの民に対しても真の神にだけ頼れと述べられてきた。
罪に満ちた民の中で戦いを経験し、神の憐れみによって命を得た残りの者たちは本当に頼るべきお方を見出した。それは人ではなかった。時代を超えて、人間が頼りにすべきは真に力ある主権者である神のみである。いつの時代にも人間は各国を見比べながら時の権力者との結びつきを求め、庇護を求める。現代でも変わらない態度である。しかし真の神を信じる私たちは、常に神に頼ることを覚え、そのように生きるのである。主の憐れみによって。
2020/12/9(水) 担当 高谷清師 ヨハ 21:7-8 賛美 聖歌 128
ヨハネは「イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。」と記している。この箇所について大宮溥師は「ペトロは、行動において常に他に先んじている(20:6・21:7)けれども、「イエスの愛しておられた弟子」は、イエスの心を知ることにおいても(13:24)、復活の主を感知することにおいても、ベトロに先んじていた。この弟子の報道としてのヨハネによる福音書は、主イエスの福音の最も深い真理を伝えるものであることを、この追加の章が強調しているのである(21:24参照〉。(説教者のための聖書講解No34P33―34日本基督教団出版局1981)と述べておられる。パウロは「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。」(?コリ12:4-6)と述べている。人間は万能ではない。神から与えられている賜物、務め、働きは、各々異なる。それらがキリストに在って結び合わされ、調和を与えられ、キリストの体―教会を形成するのである。キリストに在って、互いを認め合い、尊敬しあい、愛し合って調和ある教会形成のために進もう。
2020/12/10(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書5:6-8 賛美 新聖歌427
ヤコブの残りの者たちは神に頼り、神に信頼を置く。彼らが神に望みを置くとき、彼らは若獅子のような力に満たされる。そして誰一人彼らに対して勝利を得ることができる者はいない。神を頼りとするヤコブはあらゆる敵を打倒す。これは、アッシリアの勢力の前に恐れおののくイスラエルの姿からは想像すらできない。真の神に頼る者の力は彼ら自身の能力によって獲得するものではない。また、それは人間から与えられるものでもなかった。神に頼る人々に力を与え、しっかりと立たせるのは神の業であり、恵みである。それは世のすべての人々にとって、また本人にとっても驚きであろう。しかし神ご自身の力によってすべては与えられる。これはまず残りの者たちのうちに真の神に対する、決して揺るがぬ信仰に基づく、ただ神にのみ頼るという決断によって始まる。そして頼る者を守られる神の真実によって実現される。
口先と習慣だけの信仰ではなく、具体的生活において神に頼る信仰者でありたい。
2020/12/11(金) 担当 高谷清師 詩 58:7-11 賛美 新聖歌 196
詩人は「神に従う人はこの報復を見て喜び/神に逆らう者の血で足を洗うであろう。」と詠う。この箇所についてA. ヴァイザーは「義しい人への審きの効果を述べる詩の末尾は、他方において寛容ならぬ宗教的偏向(詩68:34参照)にもとづくあからさまな(中略)〔他人の不幸を喜ぶ心〕と残忍な復讐心とを示している。それらはややもすれば信仰の悟りの木にも咲き出る危険なあだ花の一つである。」『ATD旧約聖書註解詩篇中P114』ATD・NTD聖書註解刊行会1985)と述べている。イエスは「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタ 5:43-45)と教えておられる。権力をかさに神のみ名を利用して悪を行う者があるならば、彼に対する裁きを求めるのではなく、愛をもって執り成すことが求められるのである。
2020/12/12(土) 担当 高谷清師 ヨハ 21:9-13 賛美 新聖歌 426
ヨハネは「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。」「イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。」「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。」と述べている。この箇所を読むときに、疲れた心に沁みわたるイエスの深い愛と慈しみに深い感動と感謝を禁じ得ない。弟子たちはイエスの言葉に従って働きのために出て行った。しかし「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ 24: 49)と語られたイエスの言葉を忘れていた。彼らは何の成果もなく、疲れ果て、冷え切ったからだと空腹を抱えて帰ってきた。イエスはそのような弟子たちを慮り、彼らのために炭火と食べ物を備えて待っていてくださったのである。肉にすぎない私たちは、時にはイエスの御心を読み違えることもあるであろう。イエスの御心とは違う方向に進み、困窮に陥るかも知れない。しかし、それが真から出たものである限り、イエスは愛をもって支え、正しい道へと導いてくださるのである。イエスの愛と慈しみに信頼し、真実をもって歩もう。
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