2020/11/30−12/5

 2020/11/30(月) 担当 高谷清師 ヨハ 20:30-31 賛美 新聖歌 427

 ヨハネはこの箇所に本福音書を記した目的を記している。それは「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」と述べている。ヨハネはこの目的のもとにイエスがなさったことがらを取捨選択して記しているのである。イエスを知り、信じる仕方にはいろいろある。ある人々は歴史上の人物としてイエスを知り、信じる。またある人はイエスを偉大な宗教家として知り、信じる。それらはその人に知識をもたらす。しかし、私たちに救いを得させるのは「イエスは神の子メシアである」と信じる信仰だけであり、それは聖霊によってのみ、もたらされ持読される。御国に迎えられる日まで、全生涯を聖霊の導きに従って歩み、救いを全うしょう。
 
2020/12/1(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書5:3  賛美 新聖歌76
 ミカを通して預言された「イスラエルを治める者」(5:10)はどのように統治するのだろうか。その統治は平和と安定である。ミカの預言を聞いていた民は、外国の力に圧倒され、国が不安定な状況に生きていた。この人々が聞いたのは神ご自身がイスラエルを統治する人を送ってくださり、その統治者は主の力と神の威厳をもって治めるというメッセージであった。世界の歴史の波に翻弄されることのない、神という絶対的な力をもった方の権威によって治める支配者を持つという宣言は、不安定な国家に生きていた人々にどれほど確かな力と希望を与えただろう。
 神の励ましのメッセージは足元が不安定な状況に、何とか日々のバランスを保ちながら生活している人々に確かな平和と将来を約束する。現代でも人々は確かな平和と希望を求めて歩んでいる。その状況において確かな導き手を与えて下さるのは真の神ご自身である。主に望みを置き、主を仰ぎ見て前進しよう。
 

2020/12/2(水) 担当 高谷清師 ヨハ 21:1-25 賛美 新聖歌 395

 ヨハネによる福音書は第20章で一応終わっており、第21章は追加、補遺とみられている。この章が追加された理由について大宮溥師は「主に愛された弟子」(7、20、24、節〉とぺトロとの関係と対照を示そうという意図があったと推測される。ぺトロは、行動において常に他に先んじている(20:6、21:7〉けれども、「イエスの愛しておられた弟子」は、イエスの心を知ることにおいても(13:24〉、復活の主を感知することにおいても、ぺトロに先んじていた。この弟子の報道としてのヨハネによる福音書は、主イエスの福音の最も深い真理を伝えるものであることを、この追加の章が強調しているのである21:24参照〉。」(説教者のための聖書講解No34P33-34日本基督教団出版局1981)と述べておられる。
 福音を託され、イエスの召天後その宣教を委ねられた使徒たちは各々、異なった個性を持ちながら、調和を保ち、委ねられた使命を遂行していった。私たちも自らの個性を自覚しつつ、互いを愛し、尊敬し、調和をもって教会に委ねられた使命を果たしていこう。
 
2020/12/3(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書5:4-5  賛美 新聖歌2
 安定的な平和をもたらす統治者は、アッシリアをはじめ諸外国の武力に圧倒されているイスラエルをその窮地から守る。ミカの預言は、敵が襲い掛かるという現実から目を逸らさない。国々がエルサレムの城郭を踏みにじろうとするという現実を見据えた上で、追い詰められた状況からこのメシアが民を救い出すという。アッシリアという当時台頭していた強大な武力を持ち、支配を拡大していたこの国からも救うという力強い約束が与えられる。
 神が与えて下さる平和と救いの約束は、目の前に差し迫る苦難の現実を無視してそこから逃避する夢物語ではない。人間的な軍事力や武力では太刀打ちできないほど強大な敵を前にしながらも、神の力と威厳のゆえに確かに救い出すという確固たる約束である。神が与える救いの約束はご自身の力と権力に基づいているからこそ、信じるに足るメッセージである。今年も主イエスのご降誕を待ち望むアドベントに入った。平和の君、救い主が与えられた喜びと御子の血による罪の赦しをもう一度しっかりと受け止め、賛美と感謝のうちに過ごそう。
 
2020/12/4(金) 担当 高谷清師 詩 58:7-10  賛美 新聖歌 195
 詩人は「神が彼らの口から歯を抜き去ってくださるように。/主が獅子の牙を折ってくださるように。彼らは水のように捨てられ、流れ去るがよい。神の矢に射られて衰え果て/なめくじのように溶け/太陽を仰ぐことのない流産の子となるがよい。鍋が柴の炎に焼けるよりも速く/生きながら、怒りの炎に巻き込まれるがよい。」と祈っている。この箇所についてボンフェッファーは「完全に負い目のない人でなければ、そのようには祈れない。この復讐の祈りは負い目なき者の祈りである。(中略)この詩を祈っているのはダビデである。ダダビデ身は負い目のない人ではない。しかし、ダビデにおいて、ダビデの子と呼ばれるであろうお方、イエス・キリストを用意されるのが、神の御旨であった。彼からキリストが出られるはずであるから、(中略)ダビデのうちにはキリストがおられる。そのことによって、また、神の教会がある。そのゆえに、彼の敵は、イエス・キリストの敵であり、イエス・キリストの型なる教会の敵なのである。そのゆえに、ダビデは彼の敵の前に滅びてはならないのだ。ダビデにおいて、負い日なきキリスト御自身が共にこのように祈っておられる。――そして、キリストと共に、聖なる教会全体がそのように祈っている。そうだ、私たち罪人がこの復讐の歌を祈るのではない。負い目なきお方御自身が、そして、そのお方だけが、この歌を祈るのである。負い目なきキリストが、この世の前に出て、告訴される。私たちが告訴するのではない。キリストが告訴されるのである。」(ボンヘッファ一説教全集3P63新教出版社2004))と述べている。聖書は「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」(ロマ12: 19)と述べている。信仰によりキリストの血によって罪の赦しに預かり、キリストの体とされた教会によって祈られる祈りである。祈る時、自らの立ち位置を確認しょう。
 

2020/12/5(土) 担当 高谷清師 ヨハ 21:1-14 賛美 新聖歌 384

 この箇所について大宮溥師は「1ー14節については、二通りの説明がある。一つは、主を裏切って故郷に帰り、召命以前の状態(ガリラヤの漁夫〉にもどった弟子たちが、復活の主と出会うことによって、信仰を回復し、使徒の使命を与えられたという解釈である。しかし、第20章に主イエスの弟子たちへの顕現が二度も記されているのに、それでもまだ不信仰のまま逃避行をつづけるというのは不自然である。そこで、この漁を「人をとる漁師」としての使徒の働きを示すものと考え、この宣教の業は、使徒達の人間的努力だけでは遂行不可能であって、主イエスの命令と助けによってはじめて可能であることを示すと解釈することがより妥当であると考えられる。」(説教者のための聖書講解No34P34日本基督教団出版局1981)と述べておられる。筆者にとって新しい着眼点を与えられた素晴らしい指摘であった。まことに、宣教は神の業であり、主イエスの命令と助けによってのみ、成就することをあらためて心に刻み、御心を求め、御心に従って仕えていきたい。