2013/6/10-15

 

2013/6/10(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙13:7 賛美 新聖歌399・聖歌585
 著者は「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」と勧める。「思い出しなさい」と言う言葉は「思い続ける」ことを意味する。また、その生涯の終りをしっかり見ることは大切なことである。イエスの十字架刑の執行にあたった百人隊長について聖書は『百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った(マタ 27: 54)』と記している。殉教者ステファノの最後について聖書は「人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた使 7:59-60)」と記している。世の憎しみに対し勝利の内に地上の生涯を終えた人々の信仰に倣うものとなろう。
 

 

2013/6/11(火)担当 ラウジー満世師 列王記上15:9-24 賛美 新聖歌428 聖歌521
 ユダの王アサについて記されている。アサは神の前に正しく歩んだと記されている(15:11)。彼は国内から偶像を排除した。真の神以外を神とすることは厳しく禁じられていた。もちろん偶像を作り、それを礼拝することも厳しく禁じられていた。アサは心が神と一つであり、国内からそれらを排除したのである。アサは偶像に対しては厳しく取り扱った。
 それは母マアカをもその太后の位から退けるほどであった。私たちは「確かに母マアカは偶像礼拝の罪を犯したが、実の母親なんだし、赦してもいいんじゃないか」と考えるかもしれない。しかし、アサは神に背くことを行った者はたとえ身内であっても、神の基準に従って厳しく取り扱った。
 私たちは親しい人、身内を愛する。それゆえに、多少の不具合や罪には目を瞑ろう、見なかったことにしようと考えるかもしれない。しかし、罪を大目に見る権利は私たちには与えられていない。相手が誰であれ、聖書の基準に従って歩むなら、「見逃す」のではなく、み言葉に従って忠告し、神に立ち返るように求めるべきである。
 

 

2013/6/12 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙13:8 賛美 新聖歌361・聖歌456
 ここで著者は「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」と語る。本書の初めの部分において著者は「あなたが外套のように巻くと、これらのものは、衣のように変わってしまう。しかし、あなたは変わることなく、あなたの年は尽きることがない。(ヘブ 1:12)」と語った。キリストの不変性、それはこの書簡の全体を通して語られる根本的な真理である。そしてキリストが同じであるなら、信仰もまた同じであるということである。「世の真理」や価値観の移り変わりは激しい。わたしたちは変転極まりない世の価値観に翻弄されることなく、不変のキリストにしっかり錨を下し、ゆるぎない信仰を全うしょう。
 

 

2013/6/13(木)担当 ラウジー満世師 列王記上15:9-24 賛美 新聖歌454 聖歌302
 アサは神に信頼し、神の祝福を得た。列王記にはアサの神に対する信頼と忠実とが書かれている。しかし、この箇所の最後に短く、アサが年老いてから足の病にかかったことが報告されている(15:24)。このアサ王については、歴代誌にも記されている。歴代誌はアサの足の病についてもう少し詳細に記録している。アサはこの病にかかったとき、主を求めず、医師に頼ったとされている。医療全般を否定するものではないが、アサの信仰において、まず神に頼るという姿勢が失われていたのである。事実、これに先立って北イスラエルがラマを構築したとき、アサは神を頼みとせず、アラムの王を頼みとしたから、忠実を求めておられた神の目に適わなかったと、歴代誌には記されている。
 一人の人が生涯を通じて神に忠実であり続けること、神だけを頼り、心を一つにして歩むことの難しさがここに現れている。私たちにとっても大きなチャレンジである。「主よ、ともに歩ませてください。」という祈りをもって今日も一歩前進しよう。
 

 

2013/6/14(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 13:9 賛美 新聖歌458・聖歌514
 続いて著者は「いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません」と警告する。パウロが「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです(ガラ 1:6-7)」と述べているように、教会は初代から「いろいろ異なった教え」の出現に遭い、これと戦い続けなければならなかった。それは今日に至るまで絶えず出現し続け、真の教会はこれと戦い続けているのである。それは光の天使に偽装してやってくる。またそれは外部からだけでなく、教会内部からもやってくる。これらに勝利し真理に留まるためには、しっかりと御言葉を学び、聖霊の導きを祈り求め、光の中を歩むことである。
 

 

2013/6/15(土)担当 高谷由紀子師 ルカによる福音書17:11-19 賛美 新聖歌265・聖歌465
十人の重い皮膚病を患っていた人々は『声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った』(17:13)。このように彼らはイエスのもとに来て必死に懇願した。それに応えて主は十人全員を癒された。
 不治の病が癒されたのだから、歓喜と感謝と賛美が自然に溢れてイエスを救い主として主の御前に伏し、感謝と賛美をささげることは当然であろうと思われる。しかし、イエスに感謝したのは一人のサマリア人だけであった。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」(17:17-18)と主は言われた。人々の目から見て神に背いていると考えられていたサマリア人だけが戻り、他の信仰深いはずの人々は戻ってこなかった。
 人は、たとえ信仰者であっても、病にかかり、苦しみにあっている時は必死になって祈り、願うが、その願いが聞かれると神のことを忘れ、感謝もせず、信仰さえ失うようなことになりがちである。聖書が私たちに教えるのは「どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(?テサロニケ5:18)ということである。これを実践したい。