2013/6/3-8

 

2013/6/3(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙13:5 賛美 新聖歌249・聖歌473
 「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい」と言う勧告にもう一度注目してみたい。カルヴァンはこの箇所を「あなたがたの品性が欲深いものとならぬようにしなさい。今得ているもので満足しなさい」(カルヴァン新約聖書注解??P283)と訳している。先日「金銭は地上生活においてはなくてはならないものである」と記したが、どのレベルにおいて満足するべきかは、重要なポイントである。パウロは、将来を嘱望されるユダヤのエリートであったが、自分が迫害していた復活の主と劇的に会い、召されて伝道者となった。その生涯は波乱に富んだものであり、豊さも貧しさも経験をした。その彼が「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています(フィリ4:12)」と記している。主イエスは「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる(マタ 6:31-33)」と約束しておられる。わたしたちは、誠実に神の国と神の義を求め続け、主から与えられたもので満足すべきである。貪欲になって神の国と神の義を捨てて金銭を求めることなく、怠惰に陥って貧を招くことなく、主のみ前に誠実に歩もう。
 

 

2013/6/4(火)担当 ラウジー満世師 列王記上14:21-31 賛美 新聖歌225 聖歌447
 ユダの王、レハブアムについて記されている。レハブアムは主が選ばれた都、エルサレムで国を統治した。しかし、彼の統治は神の御心に適うものではなかった。反対にそれは罪に満ちた歩みであった。
 レハブアムの治世において述べられているのは彼が先祖達以上に罪によって神を怒らせたことであり、その罪は偶像礼拝であったこと、またエジプトから攻められ、財産を奪われたことである。ユダはダビデの家が治め続けた王国であったが、それでも王が罪を犯すときには神は怒られたのである(14:21)。神の愛と赦しについていつも聞いている現代の多くのクリスチャンにとっては意外な証言かもしれない。しかし、「神が愛である」ということは、神の僕がどれほど罪に満ちた生活をしていても一切は無罪放免にされるということではない。神はその民を愛しつつも、罪に対しては怒り、またそれに伴う責任を問われ、罪を放置する人に対してはその責任を取ることを求められるのである。この神を決して忘れてはいけない。
 

 

2013/6/5 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙  13:5 賛美 新聖歌205・聖歌612
 「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい」と勧告した著者は『神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。』と述べる。これは神がヨシュアに語られたヨシ 1:5の引用であるが、カルヴァンは『しかし私はむしろこの句は聖書に共通の教えから取られたものと考える。あたかもこう言うごとくである。「主は聖書全体を通して、私たちを見捨てることは決してなさらないと約束される」』(カルヴァン新約聖書注解??P286)と述べている。実際、歴史を見る時、人が罪を犯して神の怒りにふれ、神は裁きを宣告される。しかし神はそのような人間を捨て去ることはなさらず、悔い改めを迫り、聞き入れて犠牲をささげる者に赦しを与え、受け入れてくださった。そして、時満ちて御子を遣わし、永遠の犠牲として十字架につけ、贖いの御業を完成してくださった。わたしたちが神の臨在を感じることができず苦しむ時にも、神はあなたと共におられるのである。「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい(ヤコ 4:8)」との勧めに目を留めよう。
 

 

2013/6/6(木)担当 ラウジー満世師 列王記上15:1-20 賛美 新聖歌324 聖歌496
 ユダの王レハブアムに続いてアビヤムが王となった。アビヤムもまたレハブアム同様に罪を犯した。ここでもアビヤムがその父と同様の罪を犯したことを指摘し、何よりも彼らの心が神と一つではなかったことが記されている。
 神の民の心が神からはなれ、罪を犯すときに、彼らは神の裁きを受けるべき存在である。このときに神がユダを裁き、滅ぼされても、ユダは神に対して申し開きができない存在であった。しかし神はエルサレムを滅ぼされなかった。それは「ただダビデのゆえ」(15:4)であった。
 神は真実な方である。そして民の心が離れ、罪を犯すときにも忍耐される神である。私たちも信仰生活において神を怒らせ、悲しませ、忍耐させていないだろうか。もしそのようなことがあるならば、主のあわれみによって罪に気付かせていただき、悔い改め、神のもとに立ち返ろう。今日も神と一つ心で主に仕えたい。
 

 

2013/6/7(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙13:6  賛美 新聖歌252・聖歌476
 前節を受けて著者は『だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」』と語る。金銭への執着、その原因の一つは将来への不安である。保険会社は、老後資金は「○○千万円必要」と煽り立てる。その金額に見通しをたてたのも束の間、医療技術の進展による平均寿命の伸びと医療費の増加によって更に○○千万円必要、政府のインフレ誘導策によって必要額の更なる増加・・・不安は増大する。更に東日本大震災を契機としての災害への不安、まさに現代は不安が不安を呼ぶ、翻弄されている時代である。しかし主は「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい(マタ 10:28)」と語っておられる。救いの恵みに与かっている私たちは永遠の命に与かっている。主を離れての平安はない。主は「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな(ヨハ 14:27)」と語られる。
 

 

2013/6/8(土)担当 高谷由紀子師 ヨハネによる福音書12:1-8 賛美 新聖歌390・聖歌511
 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行き、ラザロの家に入られた。そこではイエスのために夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、何を思ったか、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。そのため、家は香油の香りでいっぱいになった。これを見た、弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」言ってマリアをとがめた。それに対してイエスは「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」と言ってマリアの行いを受け入れられた。それは、深くイエスを愛したマリアが聖霊に導かれて献げた真心からの献げものであったからである。主に喜ばれるのは、人前の見せかけや計算ではなく愛と真心による献げ物である。