2013/5/27-6/1

 

2013/5/27(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙13:3 賛美 新聖歌445・聖歌615
 勧告の第三は「自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい」と言うものである。当時、多くの人々が主イエスを信じる信仰の故に捕われ、牢につながれ、虐待されていた。それらの人々を思いやりなさいと言っている。「自分も体を持って生きているのですから」と言うのは、「他人事ではない、明日は我が身」、自分も同じ扱いにさらされる可能性があることを思い起こさせているのである。
 今日、私たちの住む日本においては信教の自由が保障され表向きには迫害はない。しかし地域社会や親族関係、その他人間関係において信仰の戦いを強いられている人は多い。また、世界に目を向ける時、信仰の故の迫害に苦しむ人々は多い。更に直接信仰の故ではないにしても、災害や格差社会の故に苦しみに直面する人々は多い。それらの人々の苦しみを共有し、思いやり、祈り、共に担っていく者でありたい。
 

 

2013/5/28(火)担当 ラウジー満世師 列王記上14:1-20 賛美 新聖歌427 聖歌520
 ヤロブアムの子アビヤが病気になったとき、彼はその子にこれから何が起こるのかを知ろうとして、かつて自分によきことを告げた預言者アヒヤを思い起こした。
 ヤロブアムは自分の息子の病という危機に瀕したときに、まず尋ね求めるべき相手は神であると知り、神の預言者の元へと妻を送った。しかし彼は妻にわざわざ変装させてヤロブアムとその女との関係を隠そうとした。それは人目をはばかったからではなかった。まさに預言者に自分と知られないためであり、すなわち預言者に言葉を与える神に自らを隠すためであった。神に息子の病について尋ねながら、その心が神に対して忠実ではなく、神の前に立つにふさわしくない自分を認識していたヤロブアムは、自らを隠さねばならなかったのである。それに対して目の見えないアヒヤはヤロブアムの妻の真の姿を、神を通してしっかりと見ていた。
 神は人間が罪を隠し、罪によって神との関係が破綻していることを隠しながらも、自己利益のために利用できるようなお方ではない。罪を隠しながら、神を利用し、状況を操作し、「神の恵みです」とうそぶいても、欺けるのは人間だけである。すべてを見ておられる神を畏れ、真実をもって主に従おう。
 

 

2013/5/29 (水)担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙13:4 賛美 新聖歌369・聖歌545
 勧告の第四は「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません」と言うものである。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる(創 2:24)」と記されているように、結婚は人間の創造の初期に神によって定められた、祝福に満ちた制度である。従って、人はこれを重んじ、誠実に守っていかなければならない。「神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれる」からである。パウロもまた「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません(?コリ6:9-10)」と述べている。この問題について今日の日本における乱れは極悪である。日本のある政党の代表であり自治体の首長を務める指導者が米軍指導者に「ある事柄を進言したと」得意になって記者会見し、国内外から顰蹙を買っていることは極めて遺憾である。夫婦間以外の妊娠が全体の半数を超えたと言われる現代においても、キリスト者は妥協してはならない。結婚に関する事柄は聖書に定められた不変のものだからである。
 

 

2013/5/30(木)担当 ラウジー満世師 列王記上14:1-20 賛美 聖歌265
 ヤロブアムは息子の病気に際して、かつて自分によきことを告げてくれた預言者を通してまた神がよいことを告げてくれると期待したのだろうか。しかし現実にはヤロブアムの妻に告げられた言葉は、厳しい神の裁きであった。
 今ヤロブアムは、神の目から見て恵を受けるにふさわしい存在ではなかった。ダビデのように神の戒めを守り、心を尽くして神に従う者ではなかった。神をないがしろにし、偶像礼拝を行うヤロブアムに対して、神は彼のご都合主義に神を利用する思いを打ち砕き、彼の罪のゆえにヤロブアム個人のみならず、イスラエルの国も徹底的に拭い去り、根絶やしになさるという裁きをはっきりと告げられた。そして妻自身がその裁きの現実をヤロブアムの家に運ぶ使者とされたのである。
 『赦す神』『愛の神』について私たちはみ言葉を通して知り、励まされている。この神は同時に義の神であり、罪を憎まれる神である。この神の目に適う、このお方にふさわしい歩みをしたい。
 

 

2013/5/31(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙13:5  賛美 新聖歌284・聖歌605
 続く勧告は「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい」と言うものである。金銭に執着すること―物質主義―はキリスト者が絶えず直面する脅威であった。パウロは「金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます?テモ6:10)」と述べている。金銭は地上生活においてはなくてはならないものである。そして神がアブラハムを祝福された時、その内容は子孫(人)と土地(物)であった。しかしそれは信仰の故に神によって与えられるものであって、物質そのものに執着してはならないのである。主は「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる(マタ 6:33)」と語っておられる。わたしたちが追求すべきものは信仰であって金銭はその結果として神から与えられるものである。第一のものを第一として歩もう。
 

 

 

 

2013/5/25(土)担当 高谷由紀子師 マコ 12:41-44 賛美 新聖歌359・聖歌424
 神への献げものは、その献げた分量の多少によって判断されるものではない。人にはそれぞれ能力の差があり、貧富の違いがある。自分の能力の少ないことや貧しいことによって多くを献げられなくても、それを悲しんだり卑下したりする必要はない。また、自分に与えられている能力が勝っていたり、物質的に富んでいたりして多く献げたとしても、それによって誇り高ぶってはならない。大切なことは自分にあるもの、与えられているものを信仰により、神のみ旨に従って用い、献げることである。主は献げ物の多少ではなく、心の思いを見ておられるのです。