2016/9/12-17

2016/9/12(月) 担当 高谷清師  ?ペテ5:1-4  賛美 新聖歌 459
 ぺトロは自らを「キリストの受難の証人」と言う。「証人」という言葉は「目撃者」、「目撃したところを証しする者」、「法廷での証人」、「苦しみによって、その証言の正しさを立証する者、つまり殉教者」、を意味すると言う。まことに、ぺトロは在世中の主と寝食と苦難を共にしました。主の十字架の苦難を目撃しました。主が裁きの席に立たれたとき、主と共にある者であることを否み、後悔して激しく泣いた者です。復活された主はこのようなぺトロに「わたしの羊を飼いなさい」と語り、ご自分の群れを託されたのである。天に帰られた主は約束に従い、聖霊を注ぎ、聖霊に満たされたぺトロはあらゆる艱難に勝利し、殉教に至るまで福音を証しし続けたのである。聖書は「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラ5:16)と述べている。私たちに「キリストの受難の証人」としての歩みを全うさせるものは聖霊の満たしである。

2016/9/13(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書48:1-2 賛美 新聖歌389
 神の圧倒的な威光と尊厳を感じる語りかけである。「ヤコブの家よ、これを聞け」(1:1)という呼びかけで神がイスラエルに対して語り掛けられる。この時神は「イスラエルよ」と呼びかけるのではなく、「イスラルの名をもって呼ばれる者よ」と語りかけておられる。有名無実だ、ラベルはあっても内実が伴っていないと言われているようだ。さらに続けて「まこともなく、恵みの業をすることもないのに/主の名をもって誓い/イスラエルの神の名を唱える者よ」と畳みかけるように語られる。大変辛辣な呼びかけである。『イスラエル』という呼称によって世界的に認識されていることがその本質において神との特別な関係にあるということを保証するものではない。
 これはクリスチャンの場合も同様である。「クリスチャン」と呼ばれるから常に神との親しく健全な関係を保っているのではない。神を求め、神に祈り、神に従い、神に依りすがる者が本当のクリスチャンである。名ばかりのクリスチャンとして神を苛立たせるものになることがないよう、真の神を求めて依りすがる生活を送ろう。

2016/9/14 (水) 担当 高谷清師  ?ペテ5:1-4 賛美 新聖歌 339
 またぺトロは自らを「やがて現れる栄光にあずかる者」と語っている。主はかつて弟子たちに「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」(マタ 19:28-29)と語られた。ぺトロの脳裏にはこの御言葉が、そして変貌の山で目にした光景が思い起こされていたであろう。パウロも「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」(ロマ8:18)と語り、更に「今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」(?テモ4:8)と述べている。主は「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタ 10:28)と語られた。魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方はまた、信じる者に永遠の命を与えるお方である。神の約束を望みつつ歩もう。

2016/9/15(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書48:3-11 賛美 新聖歌165
 神は辛辣な口調で呼びかけたイスラエルに対するメッセージを語り始められる。3−6節では神が既にされた御業について、確かに神の業であったことを強調される。神ご自身の業であり、そのことは他の何ものの手にも帰されない。イスラエルはあらゆる神の業と恵みを見て偶像のおかげだと見当違いな応答をするが神はそれを拒み、神ご自身の業であったことを何度も語られる。神の苛立ちが感じられる。さらに6節後半からはさらに新しいことをなされると宣言される。それはこれまで以上に驚くべき御業である。新しいことの内容は語られていないが、なぜそれをなさるのかが焦点として語られている。それは神ご自身のため、神の名のためである。イスラエルが神の御業を神に帰すことなく、むなしい偶像を持ち上げるとしても、神はご自身の力をもって御業を行い、誰も不当に神の業を他の名のもとにたたえることができないほどにご自身の力を示されて神の名と栄光を回復される。
 神の大いなる御業を正しく神に帰し、主を賛美し、その御名を高く掲げているだろうか。

2016/9/16(金) 担当 高谷清師  詩編26:9  賛美 新聖歌 321
 ダビデは自らの潔白を主張した後、「わたしの魂を罪ある者の魂と共に、わたしの命を流血を犯す者の命と共に取り上げないでください。」と祈る。この箇所についてカルヴァンは「『神が正しい者を、悪しき者と同じ滅びに陥らせることのないように』というこの祈りは、一見すると、不合理に思われるかも知れない。しかし神は、その父としてのいつくしみ深さと、やさしさに従って、その民がこのような訴えを、しかも自由に・親しく発することを許される。それは,彼らを試みる憂いや当惑を、祈ることによって矯正し、これを乗り越えることを、彼らが学ぶためである。まことに,ダビデはこのような祈りを捧げつつ、その目の前に、神の正しいさばきを描いていた。それは不安と恐れから、救い出されるためであった。善人を悪人と混同し、彼らすべてを同様に扱われることほど、神にとってふさわしくないことはないからである。」 (カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P320新教出版社)と述べている。アブラハムもまた「正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」(創18:25)と祈っている。小畑進師は「今の世は玉石混滑です。味噌も耶蘇もいっしょくたです。麦と毒麦とは入りまじっています。かえって、石がいつわって玉のようにおのれを見せています。白が黒とされ、黒が白を主張しています」(小畑進詩篇講録P304いのちのことば社)と語っておられる。これは内外を問わず、現実の姿である。しかし神は裁きの日に正義を行われる。

2016/9/17(土) 担当 高谷由紀子師 ヨハ 12:1-8 賛美 新聖歌 390 
 主が十字架の上で息を引き取られたときの様子について「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。」と記されている。神殿の垂れ幕とは、聖所と至聖所を隔てていた幕のことである。至聖所は神の臨在される場所で、そこには大祭司が民の贖いのために年に一度だけ犠牲の動物の血を携えて入ることが許されていたのである。イエスの死によってその幕が裂けたことは、イエスの死によってすべての人が神に近づく道が開かれたことを意味している。ヘブライ人への手紙の記者は「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブ 4:16)と記している。”,,960″