2019/8/5-10

2019/8/5(月) 担当 高谷清師 ヨハ 14:15-17 賛美 新聖歌 408

 新共同訳聖書はヨハ 14:15-31に「聖霊を与える約束」という見出しを付けている。イエスは「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」と語られる。この箇所について原野和雄師は「ブラウンは、一五節の二つの文を共に条件ととり、全体として十六節につなぐ。「もしわたしを愛して、わたしのいましめを守るなら、わたしは父にお願いしよう」と。すると、イエスを愛することは、即ちそのいましめ〈「互いに愛しあう」一三・三四)を守ることであるということになる」(説教者のための聖書講解No32日本基督教団出版局198025)と述べておられる。またジークフリート・シュルツは「全く突然イエスは、この去り行く啓示者に対する弟子たる者の愛に言及し、それは彼の戒めを守ることによって示されるであろう、と言う。しかしこれは事実上「彼の言葉を守る」(2324お節)と同じ意味であるから、ヨハネの意図としては、信仰問題以外の問題では全くあり得ない。この信仰の決断は当然、兄弟愛を含む(1334」(NTD新約聖書註解(4)ヨハネによる福音書NTD新約聖書註解刊行会P356-357)と述べている。「聖霊を与える約束」はイエスを信じ、愛する者に与えられているのである。
 
2019/8/6(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書11:10-11  賛美 新聖歌252
 人の限界をはるかに超える神の大きな愛を受けた民はどうなるのだろうか。民はこれまで神に従うことができなかった。自力で神のもとに立ち返ることができなかった。それに対して神は深い愛を示された。その時、ついに民は恐れつつ神のもとに立ち返る。かつて、神の愛に導かれていた初めのころに民が体験したように、今回新たにかつての奴隷の地、エジプトから小鳥のように飛んでくる。また、新たな解放と帰還が北王国を滅ぼしたアッシリアの地から起こる。
 神はどんなときにもご自分の民とかかわってくださる。常に悪を行い、神から離れていく民の罪に怒りを燃やされ、度重なる立ち返りの呼びかけにも心をかたくなにして応えない民への裁きを告げられる。それでもなお民を愛することをやめられない。この愛が民に通じるとき、民は神に立ち返る。神の厳しい導きの中にも神の愛が豊かに示されていることを知るときに、人は神に立ち返ることができる。その愛はみ言葉の中に豊かに示されている。
 

2019/8/7(水) 担当 高谷清師 ヨハ 14:15-17 賛美 聖歌 501

 イエスを愛し、信じる者に対する約束は「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」イエスが父にお願いし、父によって遣わされる真理の霊―聖霊は弁護者である。弁護者(口語訳聖書では助け主)について原野和雄師は「自分一人では立ち向かえず、処理できない問題に助力を与えるものとして呼び出される弁護士の役を担う。しかし、これは人間が初めから主張でき、確保できる権利や正当性を持っていて、その保持のために助力を依頼するということではない。何も持ち合わせていない者、どうすることもできないものがなおかつ生きることができるように助力が与えられねばならない。(中略)「助け主」の力は、本来自分になかったものを生み出していく。新しい出来事を起こし、新しい関係を生む。人を保持する力であるより、むしろ人をゆり動かし、新しく造りかえ、積極的姿勢を持って問題に取り組ませる力である。」(説教者のための聖書講解No32日本基督教団出版局198025)と述べておられる。パウロは「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(?コリ 12:3)と述べている。聖霊はイエスを愛し、信じる者のうちに働き、肉の力ではなし得ない、御心に適う歩みをさせて下さるのである。
 
2019/8/8(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書12:1-2  賛美 新聖歌385
 11章で神の深い愛に応えてエジプトやアッシリアから立ち返ると言われたにもかかわらず、またもや12章で北イスラエルと南ユダの罪が指摘される。11章での立ち返りは空想だったのだろうかとも思えるような言葉がここに記されている。結局のところ、イスラエルが一時的に示した信仰は本物ではなかったということであろう。民は道徳的な厳しさを持つ神とその愛を認めてはおり、一時的にはそれを受け入れる、しかし一貫して神に信頼し、その厳しさを伴う愛に従い通す本物の練られた信仰を成長させてはいない。それ故に、あらゆる困難の中で唯一真の神にだけ頼るという信仰を貫けない。多少の困難が襲うと風を追うようにアッシリアやエジプトにすり寄る。政治的には時局を見極め、賢明な判断をして時の強国と手を結ぶ手腕を持つリーダーに導かれるということになるのであろうが、神の目から見ると、神に対して不忠実であり、一貫した堅い信仰を示すことができない弱い者とされる。
 一時的な信仰を告白し、喜ぶ者は多い。しかし試練を通して鍛えられ、信仰を成長させて神に仕え通す者は多くはない。主の救いを受けた喜びを思い返しつつ、今日もとりなしてくださる聖霊の助けによって神に忠実に仕えていこう。
 
2019/8/9(金) 担当 高谷清師  詩 46:2-4 賛美 新聖歌 252
この箇所について月本昭男師は「神自身が「われらの避け所」であるがゆえに、大地や山々が揺らごうとも、海の水が騒ぎ立とうとも、「われらはおそれない」と高らかに宣言される。大地や山々が「揺らぎ」、海水が「騒ぎ立つ」とは、創造以前の原始の混沌を象徴する神話的表現でもある。それゆえ、神ヤハウェの創造の業はしばしば荒れ狂う「海」や「大水」を制圧する行為として描かれる(74:13-1789:10-13)。自然がいかに破壊的な相貌をみせようとも、神を「避け所」とする「われらはおそれない」と宣言する背後には、このような創造神信仰が横たわる。」『詩編の思想と信仰?』新教出版社2006、P198)と記しておられる。阪神淡路大震災以降、世界各地においてこれまでの経験を超える自然災害が頻発、人々を不安に陥れている。加えて各専門機関からは私たちの体験を超える被害予測が示され、人々の不安を増幅する。確かに、自然の出来事は人間の想定を超え、私たちには予測不可能である。しかし、神は天地万物の創造者であり、維持者であり、愛なるお方である。このお方を信じる時のみ、私たちは平安を得ることが出来る。
 

2019/8/10(土)担当 高谷由紀子師 マタ 7:24-27 賛美 新聖歌 316

 家を建てる時大事なのは土台です。確かな、しっかりした土台の上に建てた家は雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れません。これは私たちの人生も同じです。確固たる土台の上に建て上げた人生はいかなる試練に遭遇しても、神の審判にも崩れ去ることはありません。私たちの人生の確固たる土台はキリストの言葉です。いかなる時にも、キリストの言葉に従って歩みましょう。