2019/8/12-17

2019/8/12(月) 担当 高谷清師 ヨハ 14:15-17 賛美 新聖歌

 「この方は、真理の霊である」と言われている。イエスは「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(ヨハ 16: 13)と教えておられる。パウロは「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(?コリ 12: 3)と述べている。聖霊は私たちを真理に、イエス・キリストに導き、信仰を得させ、「イエスは主である」との告白に導くお方である。またイエスは「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です」(ヨハ 17: 17)と祈ってくださった。聖霊は私たちをきよめ、聖なる者としてくださるお方である。常に聖霊のみ声に耳を傾け、御霊によって歩もう。
 
019/8/13(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書12:3-7  賛美 新聖歌359
 ホセアはイスラエルの罪を指摘するために歴史をさかのぼり、ヤコブについて述べる。ここで思い起こされているヤコブは、意外にも神の罰を受ける者とである。生まれる前からすでに悪い行いをしていたと言われる。それゆえ、ホセアの時代の人々もまた罪の中にあり、神に赦しを求めなければならない。しかしヤコブは罰を受けるべき者だとだけ言われて終わってはいない。ヤコブが泣きながら恵みを求めたときに、神の憐みの故に神は向き合ってくださった。このような過去の歴史に基づいて神はなお「立ち帰れ」と招いてくださる。その招きに応じるならば、今、どれほど罪にとらわれていたとしても神の憐みにより救われて正義と愛を保つことができるのだ。
 神に背いて神から離れながら正しくあること、愛を保つことはできない。正義と愛はいつくしみ深い神から流れ出るからである。日々神に助けを求め、憐みの中で生きよう。
 

2019/8/14(水) 担当 高谷清師 ヨハ 14:15-17 賛美 新聖歌 415

 またイエスはユダヤ人に対して「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハ 8: 32)と語られ、更に「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」(ヨハ 8: 34)と教えておられる。パウロは「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(ガラ 5: 1)と述べている。自由とは、何者によっても拘束されず、自分の心の欲する儘を行うことではない。生まれながらの人間の心は罪の奴隷だからである。イエスは十字架の贖いの御業によって罪人を奴隷の軛から解放してくださったからである。真の自由とは聖霊の導きと助けにより真理の道を歩むことによってのみ得られるのである。
 
2019/8/15(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書12:8-12  賛美 新聖歌253
 カナンに約束の地を与えられたイスラエルは豊かな富を得た。経済的に豊かになったとき、人々はそれを神の祝福だと考えた。しかしホセア書によると、その時代にイスラエルが持っていた富は欺きによって得たものだと述べた。人の目に良いものと映ったものが神の目からは罪と悪とによって積み上げられたものであった。これは私たちにとっても大変な驚きである。では気づかぬうちに罪によって築かれた富のうちに生活している人々はどのようにしてそこから抜け出せるのだろうか。その答えはやはり民の内側にはない。かつて奴隷の地から解放してくださった神の憐みに再びすがることによってのみ、解放が与えられるのだ。民がその正しい道に立ち返るように神は預言者たちを送られた。人々が正しい歩みを求めて足を動かし始めるときに、預言者の言葉や幻を通して神は今なお民を導く用意を持っておられる。
 表面上豊かで大きな神の祝福だと見えるが、根底は罪と悪に支えられている満ち足りた生活ではなく、神の言葉と導きに聞き従う、神の憐みによって導かれる関係へと成長させていただきたい。確かにそこにある神の導きを求めて歩もう。
 
2019/8/16(金) 担当 高谷清師  詩 46:5-8 賛美 新聖歌 327
 詩人は「大河とその流れは、神の都に喜びを与える」と詠う。創世記には「エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。」(創 2:10)と記されている。エゼキエルはエゼ 47:1-12において神殿から流れ出るいのちの水の川について記している。神殿から流れ出て神の都を潤す川は、潔め、豊かな命をもたらし、祝福を与える。神の都は神の臨在される場所であり、命の水の川が豊かに流れ、祝福に満ちている。神が臨在される故に、すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐとも、神の都は揺るぐことはない。ファリサイ派の人々が、「神の国はいつ来るのか」と尋ねたのに対してイエスは「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ 17:20-21)と答えておられる。
 今日、世界は、米中対立、日韓対立、北朝鮮問題、中東問題等によって、騒ぎ、揺らいでいる。各種兵器の進化は一瞬にして人類を破滅させることが可能であるという現実を突き付けている。そのような中に在って平安に歩むことが出来る道はイエスを信じることによって神の国に生きる以外にはない。
 

2019/8/17(土)担当 高谷由紀子師 コロ 1:19-20 賛美 新聖歌 247

 8月は広島・長崎の原爆の日、敗戦の日と、太平洋戦争に関する記念日が続き、平和が語られます。今日、日本だけでなく、世界で平和が語られ、求められ、実現のためにあらゆる分野で努力が続けられています。しかし、分裂・紛争は克服されるどころか、益々深刻さの度合いを深めています。これは平和が人間の知恵や努力によって実現できるかのような錯覚を抱いているからではないかと考えられます。パウロは「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」(コロ 1:19-20)と述べています。神との和解なくして平和はありません。それはイエスの十字架によってのみ、与えられるのです。