2015/6/29-7/4

2015/6/29 (月) 担当 高谷清師  ?コリ16:10-11  賛美 新聖歌 372
 パウロは自身のコリント訪問に先立ってテモテとエラストの二人をマケドニア州に送った(使 19:22)。テモテは年若い働き人であった。パウロと同様、主の働きを担っていた。このテモテを送るにあたってパウロはコリントの人々に、あなたがたのところで心配なく過ごせるようお世話することと、だれも彼をないがしろにしてはならないこと、わたしのところに来るときには、安心して来られるように送り出すことを求めている。コリント教会にはパウロに反対する者も多かった。他の箇所で主の働き人についてパウロは「よく指導している長老たち、特に御言葉と教えのために労苦している長老たちは二倍の報酬を受けるにふさわしい、と考えるべきです(?テモ 5: 17)」と述べている。
 主がご自身の名によって遣わされる指導者に対しては、老若男女、地位の高低、等によって、ある者には丁重に対応し、ある者は軽んじるようなことをしてはならない。彼らは主の名によって遣わされているのである。また、遣わされた者は主の名をかさに、権威を振り回してはいけない(?ペテ 5: 3)。互いに謙遜に仕え合うべきである。

2015/6/30(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書1:10-20 賛美 新聖歌369
 10節の呼びかけを聞く時、イスラエルとユダがどれほど堕落していたかを思い知らされる。しかし、続けて読んでいくと、彼らは神殿で礼拝をささげるときの献げ物の規定を無視していたわけではなさそうである。定めに従って雄羊や雄牛などをささげていたようだ(1:11)。しかし神はそれを喜んではおられない。むしろそのような献げ物や祭を受け取ることを拒否なさっている。神がそれらを耐えられない、憎んでいる、重荷であるとまで言われる。
 何がいけなかったのだろうか。律法に従って神に近づいても拒否される。神はこれまでの制度を廃止して新しくされるのだろうか。決してそうではない。これらの献げ物が神に拒否された理由は彼らの手が汚れているからである。彼らの生活の中で神に従って歩んではいないからだ。彼らにとっての礼拝は日常の罪深い生活とは切り離された「宗教的パフォーマンス」に堕してしまっていたのである。これは他人事だろうか。私たちにとっての礼拝はどうだろうか。

2015/7/1(水) 担当 高谷清師 ?コリ16:12  賛美 新聖歌 399
 この手紙の初めの部分において『あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです(?コリ1:12)』と述べている。この時点でアポロのコリント訪問を望む声はある程度強かったことがうかがえる。そのためパウロは、アポロにコリント訪問を勧めたのである。しかしアポロには、その時点においてコリントに行く意思は全くなかった。パウロは「良い機会が来れば、行くことでしょう」と述べている。聖書は「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。コヘレト(3:1)」と述べている。長い信仰生活を歩んできた人々には様々な思いがあるであろう。しかし私たちは、肉において行動するのではなく、主の御心を求め、それに従って行動しょう。

2015/6/2(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書1:10-20 賛美 新聖歌35
 神は実生活では社会的弱者を搾取し、悪を行っている民の献げ物を拒まれた。これは同時代の預言者、アモス(アモス5:21-24)やホセア(ホセア6:4-6)も語っていることである。彼らの献げ物が受け入られるために彼らは何をしなければならないのだろうか。それは悪の行いを離れること、実生活において善を実行することである。もはや献げ物を顧みないという恐ろしく、また厳しい決断を神から下された民であったが、まだ神は彼らにチャンスを与えてくださった。神ご自身が罪深い民と論じ合い、向き合ってくださる。そしてどれほどひどい罪も清められる可能性があるのである。それは民次第である。彼らが自ら神に従うならば罪が赦されるのである。
 自分が罪を犯した、神に不従順であったと気付いたとき、私たちはその罪から離れ神に従順な歩みを取り戻し、赦しと清めを求めているだろうか。神は憐れみ深い。自分の歩みに、神に喜ばれない部分、不完全な部分を見出したなら、神に立ち帰り、罪の赦しを受け取ろう。

2015/7/3(金) 担当 高谷清師  ?コリ16:13-14  賛美 新聖歌 465
 ここでパウロは奨励の言葉を述べる。その第一は「目を覚ましていなさい」である。主イエスがご自身の再臨の時(今の世の終わりの時)について語られたことを福音書は伝えている。その中で「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである(マタ 24:36−37)」と教え、「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである(マタ 24:42)」と警告しておられる。またゲッセマネの祈りにおいて弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」(マタ26:38)と語られた。またパウロは「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです(ロマ 13:11)」と述べている。今の時代は再臨の時がパウロの時よりもさらに迫っているのである。しっかりと目を覚まして備えをしていよう。

2015/7/4(土) 担当 高谷由紀子師 箴30:25 賛美 新聖歌 321
 暑い、夏真っ盛りの時、キリギリスは声高らかに歌い、楽しい毎日を過ごしていました。その足元で蟻は汗を流し、自分の身体よりも大きな荷物を運んで働いていました。そのうち、冬がやってきました。蟻は夏の間一生懸命働いて貯えておいた食べ物があるので困ることなく、厳しい寒さにも命を保ち続けました。キリギリスは食物がなく、とうとう死んでしまいました。蟻は歌って遊ぶこともなく、力もありませんでした。しかし夏の間、冬に備えて働いたことで命を長らえました。蟻は「暑いから」「また後で」「明日になったらしょう」と、今日すべきことを明日に延すことをしませんでした。「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある(コヘレト3:1)」と聖書は告げています。今の時になすべきことを怠ることなく日々を過ごしましょう。”,,1347″