2012/5/21-26

 

2012/05/21(月) 担当高谷清師 マタイによる福音書 16:13-28 賛美 聖歌577
 来週の主日は聖霊降臨日である。今週はそのことについて御言葉に耳を傾けていきたい。一行がフィリポ・カイサリア地方に行った時主は弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「エレミヤ」「預言者の一人だ」と言われている巷の声を紹介した。主が「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と尋ねられるとシモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。この答えに関し主は「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われた。それに続いて主が御自分の受難を予告されると、ペトロは主をいさめ始め「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と言った。これに対し主は「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」と叱責された。
主は受難を前にして「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる(ヨハ 16: 13a)」と語っておられる。
ペトロをはじめ弟子たちは三年有余にわたって主と寝食を共にし、親しく教えを受けた。しかし完全な福音理解には至っていない。私たちは聖霊によってのみ、真の福音を理解することができるのである。
 

 

2012/5/22(火)担当 高谷満世師 サムエル記上22:1-5 賛美 聖歌502
 ダビデは逃亡生活を続けていく。彼がサウルから逃れている間、いつも彼の居場所は人々に知られていた。彼のもとに多くの人々が集まった。そしてダビデは彼らを指導して兵士として育てていく中で自らのリーダーシップが磨かれ、将来の王としての働きのために整えられた。その間もダビデとその家族は常に危険にさらされていた。ダビデは両親をルツの時代から親戚であったモアブの地に逃れさせた。彼自身は安全な場所を求めて常に移動しながらの生活であった。この逃亡生活においても神は彼とともにあり、ダビデに従う人々を与え、具体的に逃れるべき場所をも示された。しかし神が避難所として選ばれたところは意外にもユダの地であった。普通に考えればどうして命を狙うサウルの近くへ敢えて移動しなければならないのか。それでもダビデは神に従った。ゴリアテと戦った時に表明したあらゆる獣や危険の中から救ってくださった神への信仰があってこそ従えたのだろう。また神のもとにこそ助けがあると知っていたからこそ従ったのであろう。
 私たちは苦難や危険から逃れようとする時、そこから遠ざかろうとするあまり、神からも遠く離れてしまうことがある。私たちの休みは神のもとにこそある。神のもとにとどまり、主とともに歩もう。
 

 

2012/05/23 (水) 担当 高谷清師 使徒言行録 1:3-11 賛美 主をほめよ13
 甦られた主は弟子たちにご自身を現わし食事を共にしておられた時、弟子たちに命じて「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」と語られた。そして「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と言われた。宣教の命令と、その働きのためには聖霊の注ぎを待つべきことを命じられたのである。
 主を証し、御言葉を伝えることはキリスト者の最大の使命である。しかしそれは肉の力によっては成し遂げることはできない。聖霊に働きによってのみ可能となる。それ故私たちは朝ごとに主の御前に膝まづき、御霊に満たされることが必須である。
 

 

2012/05/24(木)担当 高谷満世師 サムエル記上22:6-23 賛美 聖歌118
 ダビデとは対照的なサウルの姿である。サウルはダビデの居場所を逐一報告しない者すべてが裏切り者であるとする。神に選ばれた者として多くの人々に囲まれていたが、サウル自身の疑いと怒りによってこの人々を失っていく。次第に人が集まってくるダビデとは正反対である。また、神に仕える祭司を殺していく。こうしてサウルは祭司を失ったが、一方ダビデはサウルから逃れた祭司を得る(20節)。これらの出来事を通して、かつて神に選ばれ、神を求めていたサウルが、今では神に背くことによって神に見捨てられた人の姿を晒していることが分かる。
 神に選ばれたからといって、その選びは私たちの心が神から一生離れないことを保証するものではない。神の選びに答えて日々神に応答し、神に従う決断をしよう。
 

 

2011/05/25(金) 担当高谷清師 使徒言行録 2:1-4  賛美 聖歌565
 主の命令に従って都にとどまり集まっていた時、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。主が約束された聖霊が降り、弟子たちが聖霊に満たされたのである。この光景を目にした人々のある者たちは驚き怪しんだ。ある者たちは「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲った。この時ペトロは十一人と共に立ちあがって、真理を証した。弟子たちは聖霊降臨を体験することによって恐れから解放された。ユダヤ人を恐れて市内の片隅で息をひそめていた弟子たちは今や、公衆の面前に立って主を証しするものとなった。彼らは真理の福音を理解した。彼らの語る言葉には力と御業が伴ったのである。力ある宣教、力あるクリスチャン生活は聖霊に満たされることによってのみ可能となる。
 

 

2012/05/26(土)高谷由紀子師 ヨハネ9:1-3 賛美 主をほめよ23
 主イエスの一行は通りすがりに、生まれつき目の見えない人に出会いました。弟子たちはこの人を見て主に「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と尋ねました。それに対して主は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」とお答えになりました。
 人生には予期せぬ災害に遭ったり病に冒されたり、突然の試練に遭遇することがしばしばあります。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていたヨブも度重なる災難に遭遇しました。また多くの迫害に遭いながら世界を駆け巡って福音を宣べ伝えていたパウロも「わたしの身に一つのとげが与えられました(?コリ12:7)」と言っています。これらのことを見る時、私たちを襲う様々な試練の一つ一つが神の経綸の内にあることが分かります。ですから私たちは試練の時にも神を信じ、神により頼んで歩みましょう。