2015//1/5-10

2015/1/5 (月) 担当 高谷清師 ?コリ13:4-7  賛美 新聖歌 209
 次いで語られるのは「自分の利益を求めず」である。繰り返しになるが、ここで語られている愛はキリストの十字架によってあらわされた愛、「アガペー」の愛である。主イエスについてパウロは「キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ「あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりであった(ロマ15:3)」と記している。またパウロは自分について「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。(ロマ 15:1-3)」と記し、更に「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています(ロマ 9:3)」と記している。私たちが求めるべきは神の栄光と他者の利益である。

2015/1/6(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下17:1-6  賛美 新聖歌321  
 王となったヨシャファトはまず北王国との境を強化した。アサの時代に拡大された北王国と接する地域の守備を固めた。ここに北王国とは異なる道を歩むという王の決意が表れている。その決意は軍事的なことにとどまらず、信仰においてもヨシャファトは北王国に迎合しなかった。彼はダビデが歩んだように神を求め、バアルを求めなかった。神に忠実であるということは、現実の生活においても、また信仰においても、神を第一とし、神に頼るということである。偶像は排除するが、北王国とは軍事的な利益を求めて友好関係を保つというような信仰と現実生活のかい離は見られないのである。その時に神がヨシャファトを顧み、国を固め、富を与えて下さる。
 平和と繁栄―シャローム―はそれを求めて神のもとに来る見返りとして与えられるものではなく、ただ神を愛し、従う信仰を基礎に置いた日々の歩みにおける具体的な決断において神に従う者に豊かに与えられるのである。

2015/1/7(水) 担当 高谷清師 ?コリ13:4-7  賛美 新聖歌 108 新聖歌 209
 次いで語られるのは、愛は「いらだたず」である。新共同訳聖書で「いらだたず」と訳された言葉を新改訳とフランシスコ会訳は「怒らず」と訳し、カルヴァンは「怒りに動かされない」と訳している。更に宮平望師は「憤らず」と訳し、「憤りを感じる(パログスノー)J とは、「傍らに(パラ)」「刺すような(オクスス)」 ものを感じることであり、激しい怒りのことである」(コリント人への手紙私訳と解説P207)」と述べておられる。そしてレオン・モリスは『愛は「怒らない」〔訳注NIVは「簡単に腹を立てない」〕。「すぐカッとすることがない」(フィリップス)。もちろん、怒る必要があるときはある(エペ4・26参照)。しかし、それは悪に対して熱心に反対する意味なのであって、自分自身の利害に対する我欲ではない。(ティンデル聖書注解コリント人への手紙第1P220いのちのことば社))と述べている。コロサイの信徒への手紙においてパウロは「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい(コロ 3:13)」と勧めている。赦されるはずの無い罪人であった私に赦しを与えてくださった十字架の恵みを仰ぎ、愛に生きよう。

2015/1/8(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下17:7-19  賛美 新聖歌434
 ヨシャファトは偶像礼拝を拒み、神に忠実に歩んだ。さらに彼は教育を施した。民に律法を教えたのである。民を教えるときに、ヨシャファトは祭司だけではなく高官たちをもユダの町々に遣わしている。高官たちは現代の教会では信徒に当たる人々である。彼らもまた人々に律法を教えられるだけの信仰を持ち、律法に親しんでいたのである。さらにこの高官とレビ人たちに祭司も同行している。聖職者とそうではない人々が共に神のことばを人々に教え、民全体の信仰が強められていく。
 ここに現代の教会が学ぶべき姿がある。教職はみ言葉を教えることに責任を持って監督する。しかし、み言葉を学び、分かち合うことは教職だけの手に握られるものではなく、その責任の下で信徒一人一人がになっていく働きでもある。み言葉を分かち合うこと、証ししあうことを人任せにせず、すべての信徒が喜びを持って参与して行こう。

2015/1/9(金) 担当 高谷清師 ?コリ13:4-7  賛美 新聖歌 211
 更に愛は「恨みを抱かない」。新共同訳聖書で「恨みを抱かない」と訳された言葉を新改訳は「人のした悪を思わず」、フランシスコ会訳は「人の悪事を数え立てない」、カルヴァンは「悪感情をいだかない」、岩波訳は「悪しきことを企まず」、宮平望師は「悪をたくらまない」と訳している。この箇所についてレオン・モリスは『。愛は「人のした悪を思わない」〔訳注NIVは「悪を記録にとどめない」〕。パウロはこの動詞を、義なることを、それは信仰者がしたことだと数え上げるという意味に用いている。これは、通帳をつける簿記と関連した言葉であって、何かを記録し、それをだれかのものとして認めることである。愛は人がする悪をいちいち心を留めず、その人に悪意を抱かない。愛は、悪を計算に入れない。人を傷つけるような悪感情を抱かない。(ティンデル聖書注解コリント人への手紙第1P220いのちのことば社)』と述べている。主は「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない(マコ 12:31)」と語り、パウロは「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。(ロマ12:19)」と述べている。私たちがなすべきことは他者から受けた悪を数え、恨みを蓄積することではなく、神が与えてくださった愛をもって愛することである。

2015/1/10(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 14:3-9 新聖歌391
 ここにはイエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたときに起こった出来事が記されています。そこにいた一人の婦人が何を思ったか、ふと立ち上がり、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけたのです。同席していた人々のうちの何人かが「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」と言って、彼女を厳しくとがめました。これに対してイエスは「「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」と言われました。彼女は同席の人々と同じく、主の十字架について何も知りませんでした。しかし、聖霊の導きの内に、主イエスに対する深い信仰と愛によって、このことを行ったのでした。それを主は喜ばれたのです。主に喜ばれるのは純粋な信仰と愛から出たものであることがわかります。信仰と愛に生きましょう。”,,1123″