2014/12/29-2015/1/3

2014/12/29 (月) 担当 高谷清師 ?コリ13:4-7  賛美 新聖歌 209
 次いで語られる愛の結果、愛の実は「礼を失せず」である。この箇所を口語訳聖書は「不作法をしない」と訳し新改訳聖書は「礼儀に反することをせず」と訳している。この箇所についてカルヴァンは『「愛は、愚劣なひけらかしによってはしゃぎまわることがない。また,愛は、そうぞうしいものではない。それは、中庸と礼儀をまもっている」。それに、かれは、このように言うことによって、再びコリント人たちをそれとなく責め、かれらが無法にも思い上がって、あわれにもすべての礼節・節度を失ってしまったことを非難しているのである。(カルヴァン新約聖書注解?コリント前書P304新教出版社)』と述べている。神の祝福を受けて物事が上手く進み成果を得た時しばしば礼を失する誘惑を受ける。しかし、愛は礼を失しない。真の愛、アガペーの愛に立っているか、土台を確認しよう。

2014/12/30(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下16:1-9  賛美 新聖歌 340  
 ここで見るアサの姿は15章までのものとは正反対である。これまでは主に信頼して揺らぐことのなかった彼が、ここでは全く主の存在を無視している。北の隣国、イスラエルがアサの南王国を軍事的に脅かしたとき、彼はさらにその北に位置するダマスコの王に助けを求めた。政治的な策略であったのだろうが、わざわざ主の神殿と王宮の宝物庫から銀と金を持ち出して(16:2)まで助けを求めている。
 アサの信仰はどこへ行ってしまったのだろうか。驚きを隠すことができない。しかし、アサのこの姿は決して特別なことではない。アサほどの信仰を持っていても、それを生涯持ち続けられるという保証はないのである。信仰の歩みは日毎の決断による。昨日の信仰が10年後の信仰を保証するものではない。それゆえに私たちは日々主の御前に出てみ言葉を読み、主との交わりを深め、日々主と共に歩むことを決断していくのである。今日どのように歩むのか。祈りを持って正しい決断を下し、歩んでいこう。

2014/12/31(水) 担当 高谷清師 ?テサ5:16-18  賛美 新聖歌 171
 2015年も大晦日を迎えました。尊い御子の血潮による贖いの御業によって救いの恵みに入れられ、神の民とされ、恵みの内に生かされている私たちですが、同時にサタンの支配する世に生かされている者である。従ってこの一年間、各々が経験した事柄には苦しみと悲しみを伴うものがあったかもしれない。敬愛する人、愛する者との別れ、失恋の悲しみを経験した人も少なくないかもしれない。またこの年は各地において災害が続発した。これによって愛する家族、親族、友を失い、あるいは財産を失った人々もあるかも知れない。今日のテキストはパウロが厳しい迫害の中にあったテサロニケの教会に書き送った手紙の一節である。その中でパウロは「どんなことにも感謝しなさい」と勧めている。ヘブライ人への手紙の記者は「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです(ヘブ12: 11)」と述べている。私たちの神は全知全能にして愛なるお方である。このお方に全幅の信頼を置き、感謝をささげ、信仰をもって新しい年に進もう。

2015/1/1(木) 担当 高谷清師 マタ 5:13  賛美 新聖歌 392
 あけましておめでとうございます。皆様方におかれましてはどのような新年をお迎えになったでしょうか。新年にあたって主から与えられたみ言葉はマタ 5:13である。この箇所についてロイドジョンズは「キリスト者とは、孤立して生活する人ではない。キリスト者は世のものではないが、この世にいる。そして、世と関係をもっている。いつでも気づくことは、聖書においてはこの両面が一体となっていることである。キリスト者は、その心、そのものの見方において、この世的であってはならないと言われている。しかし、だからといって、世から退却せよという意味では絶対にない。(山上の説教上P228聖書図書刊行会)」と語っている。教会は罪に汚れた世を離れて聖く生きることを強調してきた。その結果としてキリスト者と世との絆が希薄になった。地方においては絆の喪失は社会の崩壊を意味する。そのため地方社会指導者からは危険視され、友との交わりを制限されたクリスチャン子弟は、その寂しさから強力なアンチキリスト者に育っていった。地方におけるキリスト教の凋落の原因の一つはここにある。エレミヤは預言者として神の御心を伝えたが、民はそれを受け入れず、迫害した。しかし彼は最後まで民と共に歩んだ。私たちに求められている生き方は、キリスト者としての信仰とアイデンティティを保ちつつ、地の塩として世と共に生きることである。

2015/1/2(金) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下16:10-14  賛美 新聖歌 137  
 アサは治世の後半に主に全き信頼を置きつづけることができなかった。神が先見者ハナニを通してこのことを警告してくださった時、アサは悔い改めるチャンスを得た(16:7-9)。しかし彼はそれに対して悔い改めではなく怒りをもって応えた。アサは主ご自身と心を一つにし続けることができなかった。先見者を投獄し、ある一部の民を虐待した。それでも神は彼をあきらめてはおられなかった。アサの足の病を通してもう一度神に立ち帰り、神に信頼を置くチャンスを与えられたのである。それにもかかわらず、やはり彼は悔い改めることができなかった。
 信仰は一時的なものではない。神を信じ、従うという決心をしたならば、それは地上の生涯を終えるまで日々続けていくものである。憐れみ深い神はたとえ一度失敗しても立ち帰るチャンスを与えてくださる。試練に合わない保証はないが、憐れみ深い神が私たちを励まし、ともに歩み続けるチャンスをくださることを覚えて、神と共に今年も歩み続けよう。

2015/1/3(土) 担当 高谷由紀子師 コヘ3:10-11 新聖歌359
 「人生は不可解なり」と言って自殺した青年がいました。人生は複雑であり、混乱しており、不可解であり、それ故無意味なものに思えます。ここで「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」と言われています。神は人をご自身に似せて作られました。それ故、人には永遠を思う心が与えられています。神への似姿は堕落によって失われましたが、完全に消滅したわけではありません。人の心には依然として永遠を思う心が存在しています。しかしそれは不完全であり、神の御業、ご計画のすべてを理解することはできません。しかし神は愛と善に基づくご計画をもって私たちを導いて下さるのです。パウロは「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています(ロマ 8:28)」と言っています。私たちは神のご計画のすべてを理解することはできませんが、善にして愛なる神を信じて歩みましょう。”,,1148″